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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      気随者忠直
 慶長十九年に大坂冬の陣、翌元和元年夏の陣が起きると、忠直は大軍を率いて参戦した。この時「大野郡は一揆所たる」(「諸士先祖之記」松平文庫)ことを理由に、加藤康寛を残して大野城を守らせたことが注目される。この頃には、藩主留守中の軍隊が手薄な時をねらって一揆が起こることがあり、それに備えたものであろう。
 忠直の軍勢はとくに夏の陣で真田幸村を討ち、三七五三の首級を討ち取るなどの軍功を挙げ、その戦いぶりは「掛レ掛レノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノツマグロノ旗」(「大坂記」)と、京坂の小童が囃し立てるほどであったという。この夏の陣で豊臣家は滅ぶが、戦勝直後の七月、秀忠は武家諸法度を発した。それには、「諸大名参勤作法事」と「国主可撰政務之器用事」が定められていた。
 一門であるため感状は下されなかったが、当座の褒美として家康から初花肩衝の茶入れ、秀忠からは貞宗の脇差などが与えられ、恩賞(加増)は追って沙汰すべきものとされた(「荻田主馬助覚書」)。忠直も加増を期待したのであろう、九月五日には荻田主馬(「秀康給帳」で馬廻一〇〇〇石、「忠直給帳」で一万石)に五〇八五石加増している(武州文書)。しかし関ケ原と違って没収高が少なかったこともあってか、その後恩賞については何の沙汰もなかった。
 しかもこの頃を境に、忠直の立場に微妙な変化がみられる。例えば金地院崇伝は、慶長十九年の書状で忠直を称して「越前少将様」といっているが、後に御三家となる義直・頼宣・頼房が成長してきた元和二年には、三人を「尾州宰相様・常陸様・少将様」、忠直を「越前宰相殿」と記し、義直などにより丁寧な敬称を用いている(『本光国師日記』)。家康に近侍し、国書や諸法度を起草した崇伝の書状だけに、この敬称の変化には重い意味があったものと思われる。
 このようなことが重なったためでもあろうか、忠直の行動には徐々に目に余るものが目立ち始めた。伝えられることのすべてが史実とはいえまいが、参勤を怠ったり、酒色に溺れたりで、毛利輝元が「ないないの御ぎやうぎあしく」(元和七年十一月三日付書状『毛利家文書』)といい、細川忠興が「御気随意」(元和八年九月十五日付書状『細川家史料』)といっているように、その我侭ぶりが大名のあいだで評判であったのは事実である。
写真42 松平忠直像

写真42 松平忠直像

 参勤を怠るのは元和四年からのようであるが(「家譜」)、北庄を出発しながら今庄から引き返したり、関ケ原に長々と逗留するなどしている。しかし、忠興が「御帰り候事成らざる様の御仕置これあるべし」(元和八年五月一日付書状『細川家史料』)と断言しているように、国元を出発した以上は理由なく帰国することは許されないことであった。
 また忠興の子息忠利も、忠直が「日々夜々の御酒にて跡先もなき」(元和八年二月十三日付披露状『細川家史料』)うえに、直政など弟たちの話として、勝姫付の者を、二、三人切り、「其の外数もなき成敗」をし、そのため家中の者も忠直が呼んでも側にも寄らず、「越前の儀はなかなか是非もなき様子」と伝えている(元和八年十月二十一日付披露状『細川家史料』)。さらに「今程御気相悪しく」(教願寺文書 資7)と安堵状に捺印を拒むことさえあり、忠直の「気随」「無行儀」ぶりには常軌を逸するものがみられた。本多成重の諌言も聞き入れず(「元和年録」)、「年寄とも上下、公方様へ御意次第と存る由」(元和八年十一月十日付細川忠利披露状『細川家史料』)と、福井藩の年寄衆も改易すら覚悟したもののごとくである。
 元和八年四月十七日は家康の七回忌に当たり、幕府にとって大切な時であった。秀忠は日光で盛大な法要を営んでいるが、これに水を差すような忠直の行為に、諸大名の手前もあり大いに立腹したに違いない。しかし甥であり娘婿でもあってか、勝姫のもとへ旗本宮川喜助を密使として遣わしてはいるが(「宮川喜助上書」『譜牒余録』)、「病気」であることにして大目にみていたようである。しかし諸大名のあいだでは忠直の北庄篭城や、「切りきり候て、四月の末は御出陳(陣)たるへく候」(元和八年三月三日付細川忠利披露状『細川家記』)と、七回忌を済ませた秀忠が越前へ出馬することまで取り沙汰されるようになり、佐竹義宣もそのための用意を命じているほどである(「天英公御書写」)。
 かくて秀忠も忠直の処分に踏み切ることになり、元和九年二月、忠直生母清涼院を北庄に遣わして、「国中政道も穏やかならず」との理由で、忠直の隠居と世子仙千代(光長)襲封の内意を伝えた(「家譜」)。忠直も「本望の至り」とこれを素直に受け入れ、豊後配流が決まった。家光の将軍宣下五か月前のことである。
 忠直は三月十五日北庄を出立し、敦賀にしばらく滞在している。ここで髷を落として一伯と称した。五月二日敦賀から豊後萩原に向ったが、この時北庄孝顕寺三陽和尚に「浮世に何の未練もなく、地獄も遠くないだろう」(孝顕寺文書『越前若狭古文書選』)と書状をしたためている。萩原では五〇〇〇石の賄料を与えられたが、寛永三年津守村へ移されたあと、五六歳の慶安三年この地で死去した。遺児たちは越後高田の兄光長のもとに引き取られている。



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