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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      忠直襲封と久世騒動
 秀康の跡は一三歳の忠直が襲封した。父の葬儀に帰国する閏四月二十七日に許されたという。しかしいまだ一国の政治を行うには無理で、年寄衆の補佐が期待される年令であった。九月七日には、今村盛次と本多富正の連署で桜井武兵衛(武頭、五〇〇石)へ掟が出されている。五か条からなるこの掟は、家中一統へのものとみられ、夜歩きや「かぶきもの」を抱えることを禁じ、簡素な振舞いを規定して訓戒したものであるが、第五条で年貢率は組中で談合して決め、かつ「百姓等欠落ち申さず候やうにあるべく候事」(桜井文書)が強調されている。この時期の大名の最大の課題は、百姓を居付かせ耕作に専念させることであった。この法令には家中から請書も徴されており、忠直代最初の法令として注目される。
 慶長十六年三月本多富正が従五位下に叙され、九月には秀忠息女勝姫の北庄輿入も無事終った。幕府はこの年の四月と翌十七年一月に、外様の大大名から誓詞を徴することがあった。前者は家康に対するもので、福島正則や加藤清正・前田利常・浅野幸長など二二大名、忠直は細川忠興に次いで二番目に署判している。秀忠に誓約した後者には、上杉景勝・伊達政宗など一一人が署判している。忠直のみ両方に署判していることの意味はなお定かでないが、幕府に臣従したとはいえるであろう。
 慶長十七年久世騒動が起った。越前騒動また自休騒動(「越前世譜」)ともいわれるこの家中騒動は、秀康死去の時の分配金をめぐるもめ事とか、久世但馬(一万石)と岡部自休が知行所百姓のことで争ったことなどが原因とされるが、おそらくそれらはきっかけにすぎず、本多富正と今村盛次の対立が真因と思われ、忠直の伯父中川出雲なども巻き込んで家中を二分する争いとなった。この騒動は、「伝え聞く、越州三川(河)守内ニハ、成敗人ニ付、数百人打ち死に云々、不慮」(『義演准后日記』慶長十七年閏十月二日条)と、三宝院義演を驚かすほどの、また慶長十七年の地方文書の残り方が格段に少ないことからも想像されるように、改易もありうる深刻な事件であったに違いない。しかし一八歳の忠直はこれを処理しえず、幕府の裁許に委ねられた。幕府の処分は表14のようであり、今村一派はことごとく除かれたのである。このほか自殺したり出奔した者もおり、また伊達政宗に預けられた清水孝正は、子孫が伊達家の家臣となっている(『譜牒余録』)。かくて富正は、「国中仕置」(「家譜」)を申し付けられて名実ともに筆頭家臣となり、以後幕末まで本多家の地位に揺ぎはなかった。

表14 久世騒動の被処分者

表14 久世騒動の被処分者
                   注1 中川出雲以下は慶長18年の処分.
                   注2 由木西安(2,000石)・上田隼人(600石)が但馬に
                      与して自殺.
                   注3 知行高は「秀康給帳」による.
                   注4 「家譜」『譜牒余録』『寛政重修諸家譜』などによる.
                      諸書により諸説がある.

 慶長十六年小浜藩京極家でも家中が対立し、これを家康が解決しているように(『小浜市史』通史編上巻)、この時期重臣同士が対立し、幕府の裁許に持ち込まれることも珍しいことではなかったが、富正と盛次の対立は政治路線の違いというより、主導権争いから起ったとみられる。富正の言い分によると、「往来繁多」の府中に対して、丸岡は「辺土」であるため盛次に不満があり、また本来「一老」たるべき自分を差し置いて、盛次が「一老」の振舞いをしたとある(「家譜」)。現在伝えられる二人の連署状には、ほとんど富正が日付の下(日下という)に署判している。連署状は格下のものから署判するのが約束であったから、富正の主張に根拠がないわけではなかった。秀康の人質時代から従い、その子息を養子(夭折)にもらうほどの信頼を得て、『当代記』に「万端の用人」とまで評された富正は、誇りにかけて「二老」に甘んじることができなかったのであろう。
 今村盛次が追放された丸岡には慶長十八年に、富正の従兄本多成重が付家老とされて四万石で入った。また清水孝正と林定正が除かれた敦賀と勝山の守衛のために、それぞれ上級家臣の瓦門番が交替で派遣されることになった。



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