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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    四 小浜藩の成立
      京極高次の入国
 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、東軍を率いた徳川家康は、美濃国関ケ原に石田三成の指揮する西軍を破り、天下を掌握した。この戦いに当たって若狭を領していた木下勝俊と惟俊の兄弟は、西軍に与したため、戦いののち領知を奪われた。そして近江大津城で奮戦した京極高次が、若狭一国八万五〇〇〇石を得て小浜城に入った。
 京極高次の領知高は、翌慶長六年に近江高島郡のうちで七〇〇〇石を加増されたことで九万二〇〇〇石余りとなった。同十四年五月高次が死去し、その跡は嫡男の忠高が継いだ。
 ところで高次の妻は、名を初といい近江小谷城主浅井長政の二女で、豊臣秀吉の側室となった淀殿、徳川秀忠の正室となった江与と姉妹であり、高次の死後出家して常高院を名乗った。また忠高の妻も、徳川秀忠と江与の娘であり、京極氏は、外様大名であったが徳川氏と深いつながりをもっていた(図7)。
 元和九年(一六二三)二月、越前北庄六八万石を領していた松平忠直が豊後に配流され、いったんは子の光長が跡を受け継いだ。しかしそれも翌寛永元年(一六二四)四月には越後高田に移され、その跡には忠直の弟の忠昌が入るが、そのとき敦賀郡は削減され幕府領となった。そしてこの年の冬、敦賀郡二万一一九〇石余が忠高に与えられ、小浜藩の領知高は一一万三五〇〇石となり、近世の小浜藩の基本的な領域が確定した(『寛政重修諸家譜』「家譜」)。
図7 京極氏関係系図

図7 京極氏関係系図




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