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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    四 小浜藩の成立
      京極氏の若狭支配
 京極高次は、三方郡の佐柿に多賀越中を、大飯郡の高浜に佐々義勝を置き、領国若狭と他領との境を固め、家臣には地方で知行を与えた。
 京極氏家臣の地方知行については、例えば村高六二四石五斗一升の遠敷郡の本保村では内藤八右衛門の知行地が四〇〇石、辻左馬介の知行地が一五〇石、内藤二郎右衛門の知行地が七四石五斗一升あり、それと同時に百姓も一八人、六人、三人とそれぞれの給人に割り振られ(清水三郎右衛門家文書 資9)、また遠敷郡太良庄村でも複数の給人がいたことが知られ(高鳥甚兵衛家文書 資9)、多くの村は複数の給人の知行地であった。
 藩主の直轄地である蔵入地には代官が置かれたが、慶長五年には遠敷郡の志積浦・竜前村・野代村五一七石余り、慶長十五年には遠敷郡の尾崎村と大飯郡の子生村八一九石余りが、小浜の町人組屋六郎左衛門に代官が命じられるなど、初期には町人代官がみられる(組屋文書 資9)。しかし、こうした町人代官は、元和・寛永期にはみられなくなってゆく。
写真46 京極忠高黒印状

写真46 京極忠高黒印状

 京極氏の領国支配の方針を示す条目は、入国当初のものはみられないが、元和八年に佐柿を中心に三方郡のかなりの範囲を知行した多賀越中が出した一五か条の定が残されている。第一条で、当年の年貢米の決定法について定め、前年以上の納入は求めないとし、第二条から第五条で口米・駄賃・夫米・小入木米などの付加税について規定し、第六条から第九条で年貢としての綿・ごま・餅米・大豆の取扱いを決め、第一〇条で村々への使いへの供応を禁止し、このほかの箇条では、年始・八朔の礼、逃亡百姓である走百姓の立帰り、飯米、浦方の魚の算用などが定められ、下代などに非分がある時には直訴することを求めている(三善膳太夫家文書 資8)。
 また寛永五年に「国中郷組御定被仰出条々」が出された。第一条では、数か村で郷組を作り、それらの村々が走百姓の捜索をし、もし見つからない場合には、年貢だけでなく役をも負担することが命じられており、村々に連帯責任を負わせることで走百姓の発生を防止しようとしている。第二条では、走百姓に宿を貸した者は米五石、両隣は米一石、村中各戸から米二斗を過銭として課すと規定している。第三条では、走百姓の道具を預かった者は米二石を過銭として課すとしている。最終条の第五条では、代官・給人に非分がある場合には、目安を差し上げるように、ただし理由のない訴訟を起こした場合には過銭を出させるが、代官・給人に算用で取過ぎのある場合にはその一〇倍を返却させるとしている(清水三郎右衛門家文書 資9)。



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