目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    四 小浜藩の成立
      大坂の陣と普請役
 江戸時代の初め、幕府は大名ことに外様大名に対して息つく暇もないほどの様々な軍役・普請役を課した。
 慶長十九年十月七日、大坂への出陣を命じられた京極忠高は、大坂城のほぼ東に当たる今里に一族の京極高知とともに陣をしいた。この時にはさして大きな戦闘もなく済んだが、徳川氏と豊臣氏との講和交渉は、忠高の陣所でもたれた。
 夏の陣では忠高は、京橋口に陣をしき、五月七日の戦闘で首三六〇級をあげるが、鴫野の堤の戦闘では、家臣の中には逃げ惑う者も出、さらに後続の大久保忠為等の隊が京極氏の隊を乗り越え軍を進めたほど、京極氏の戦列は大きく乱れ散々の体であった(「石川忠総大坂覚書」)。
 関ケ原の合戦以降、大坂の陣を除いて大規模な戦争はなく、軍事動員の機会は大きく減少するが、それに代って大名には江戸城をはじめとする、普請役が課せられた。
 京極氏への普請役は、慶長期には九年の公儀普請でなされた彦根城の普請、十一年と十九年の江戸城の普請のほか、十六年には禁裏の普請があり、慶長十七年の仙洞の築地普請には課金が命じられた。
 大坂の陣のあと課せられた普請役は、すべて大坂城に関する普請であった。大坂城は、元和五年に幕府の直轄するところとなり、翌年から大規模な普請が開始された。この普請は、元和六年のあと寛永元年・同五年の三期に分けて行われたが、京極氏は、この三度の普請にことごとく動員された。
 元和六年の普請では、青屋口と玉造口の間の石垣一三間三尺の普請が割り当てられ、多くの家臣が大坂に赴いた。彼等は、普請肝煎・大石奉行・栗石奉行・着到奉行・扶持方・買物使・船奉行・普請道具奉行・徒士奉行として普請に当たった(京極文書)。
 こうした役人のほか領内から人足の大量動員がなされた。寛永元年の大坂城普請に仏谷村の「ミやのわき」という人物が一年の約束で米七石で東勢村に雇われており(大橋脇左衛門家文書 資9)、期間の長さとともに人足賃の高いのも、百姓にとって大坂での普請が重い負担であったことを示している。



目次へ  前ページへ  次ページへ