小浜藩酒井氏の祖酒井忠利は、松平郷譜代酒井氏六代酒井正親の三男として生まれ、自身も三河以来徳川家康に仕え、その後江戸城大留守居・年寄となり、寛永四年川越において死去した。忠利の子忠勝は、元和六年徳川家光の小姓となり、次いで同九年に家光の将軍襲職に先立って老中となり、さらに寛永十五年には大老となった。すなわち酒井氏は幕閣の重職に就いた三河以来の門閥譜代大名であった。
忠勝は、京極氏の領地をそのまま引き継ぎ、若狭一国・越前敦賀郡・近江高島郡のうちで、計一一万三五〇〇石を領した。忠勝は、その後寛永十三年に在府料として下野佐野において一万石を加増され、領知高は一二万三五〇〇石となった(「江戸幕府日記」)。
忠勝は、常に老中・大老といった幕府の要職にあり在府を余儀なくされ、領地若狭にいたのは、明暦二年(一六五六)に忠直に家督を譲るまでの二三年間の間にわずか四度、その期間を合計しても一年に満たないものであった。最初の入国は、領地を拝領した寛永十一年、二度目は小浜城天守を築造した同十三年、三度目は同十九年で全国的な飢饉に対処するためであり、最後の寛永二十年の入国は、後光明天皇の即位式に幕府の上使として京都に上った折に立ち寄ったものである(酒井家文書)。 |