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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    四 小浜藩の成立
      小浜城の完成
 京極高次は、入国の翌慶長六年、これまでの後瀬山城を廃し、北川と南川とに挟まれた雲浜の地に平城を築くことにした。この城は、西を小浜湾、北を北川、南を南川、東を両川を結ぶ堀とによって囲まれた水城であり、領国若狭を支配するための近世的な平城として営まれた。
 築城は、まず城の予定地にあった下竹原を西津に移し、次いで城の地盤を固めるために本丸の海手への捨石が行われた。この捨石の作業は若狭の浦々に課され、三人乗以上の船に大石を積んで小浜に運ぶことが命じられた。また、小浜城の大橋の用材が出羽の能代に求められ、その運搬も諸浦に課せられた(桑村文書 資9)。
 京極氏の小浜城は、慶長十二年頃には一応の完成をみたものと思われる。しかし、江戸城・大坂城などの普請への動員、大坂の陣への参陣と、たび重なる幕府からの普請役や軍役を課せられ、小浜城の工事は思うように進展しておらず、酒井忠勝の入部した寛永十一年には天守閣はいまだなかった。
写真48 寛永12年頃の小浜城絵図

写真48 寛永12年頃の小浜城絵図

 忠勝は、寛永十一年八月幕府から小浜城の石垣・塀・櫓・門の破損修復と堀の砂さらえの許可を、次いで寛永十二年二月小浜城の天守の建造と西丸の石垣を一間積み上げることの許可を幕府から得て、普請に取り掛かった。この石垣普請を担当したのは、当時石垣積みの最高の技術をもっていた近江の穴生衆であった(酒井家文書)。
 天守台の普請は、寛永十二年十月頃に完成し、天守閣の棟上は寛永十二年十月十三日幕府の大工頭である中井正純の指揮のもとに行われ、翌十三年の十月、高さ九間三尺五寸、一層目七間八間、二層目五間六間、三層目三間四間の天守閣が完成した。
 その後も西丸石垣普請、百間橋の虎口升形の石垣など所々の石垣普請や多門櫓・建門の作事などがなされ、正保二年(一六四五)に外堀南北一三〇間、東西一五七間、本丸・二丸・三丸・西丸・北丸の郭をもち、多門五、埋門二、櫓二五を備える城郭が完成した(酒井家文書)。



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