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コラム#ふくいの記憶に出会う Fukui Prefectural Archives

番外 力丸又左衛門の知行所と力丸家の屋敷

※本編 「福井藩士力丸家の歴史をたどる」はこちらをご覧ください。

目 次

  1. 番外1 力丸又左衛門の知行所
  2. 番外2 福井藩士力丸家の屋敷

番外1 力丸又左衛門の知行所

「デジタルアーカイブ福井」で「力丸」と検索してみると、2件の資料が見つかります。1件目は福井藩士力丸家の資料のようです(C0021-00017 坂井健夫家「充行領知事」)。
年月日は「1677年(延宝5)12月」、宛名は「力丸又左衛門」、作成者(差出人等)は「(朱印)」とあります。当時の藩主は六代綱昌です。複製本で確認してみると、たしかに綱昌の朱印のようです。
そうすると、この又左衛門は本編表1の高弐百石の又左衛門、「諸士先祖之記」の四代又左衛門建時になります。知行地は丹生郡真栗村、坂井郡中庄村、吉田郡漆原村、坂井郡大牧村、同郡福嶋村、同郡青野木村、すべて相給のようです。
貞享の半知以前の福井藩士家力丸家の資料でした。ただ、残念ながら資料群情報には「坂井家についての詳細は不明」とあり、資料の由来はわかりません。

番外2 福井藩士力丸家の屋敷

断片的ではありますが、福井藩士力丸家の知行地がわかりました。 福井藩士ですから、福井城下に屋敷があったはずです。 もしかすると、城下の絵図から藩士力丸家の屋敷地がわかるかもしれません。

番外2-1 貞享2年(1685)、現在の福井鉄道「足羽山公園口」駅付近

A0143-21320 松平文庫「福居御城下絵図」(『福井市史 資料編別巻 絵図・地図』(福井市、1989年)付録1)は、貞享2年(1685)に描かれた城下の絵図です。 「力丸」を探していくと、足羽川の舟渡(現在の幸橋)の左岸、現在の福井鉄道「足羽山公園口」駅付近に「力丸十兵衛」の屋敷が、その又隣に「力丸又左衛門」の屋敷がありました。 貞享2年当時の藩主は6代綱昌です。 そうすると、これは表1の「400石、十兵衛」と「200石、又左衛門」でしょう。
すなわちこの翌年に御暇を下された十兵衛とC0021-00017 坂井健夫家文書「充行領知事」の4代又左衛門建時です。

ちなみに、この「福居御城下絵図」には「御城下絵図別記」という別添資料があります(A0143-00491 松平文庫「御城下絵図別記 諸屋鋪 上」00492「御城下絵図別記 諸屋鋪 下」00493「御城下絵図別記 寺社」の3冊)。
別添資料には、敷地の輪郭が描かれ、各部の間数と表の方角が書き込まれています(水路に接していれば水路とその幅も)。

「力丸」を探してみると、確かに十兵衛の屋敷地が「諸屋鋪 上」の97コマ目に、又左衛門の屋敷地が「諸屋鋪 下」の74コマ目にありました。輪郭や方角は絵図のとおりです。
これで事前に力丸家の屋敷地の輪郭や方角などを把握していれば、探す手間はだいぶはぶけていたでしょう。

番外2-2 正徳4年(1714)、現在の公衆浴場「宝永湯」付近

A0143-21325 松平文庫「御城下之絵図」(『福井県史 資料編16上 絵図・地図』(福井県、1990年)収載図10))は、番外2-1から約30年後の正徳4年(1714)に描かれた城下の絵図です。
番外2-1の場所にはありません。力丸家の屋敷がないのではありません。なんと一帯が屋敷地ではなくなっています。
十兵衛はすでに御暇を下されています。でも、又左衛門はいるはずです。

この「御城下之図」にも「御城下絵図別記」という別添資料があります(A0143-00494松平文庫「御城下絵図別記 諸屋鋪 上」00495「御城下絵図別記 諸屋鋪 下」00496「御城下絵図別記 寺社」の3冊)。

別添資料によると、又左衛門の屋敷地は縦長の長方形で南表、裏は悪水(排水)路に接していて、水路の幅は5尺(約1.5メートル)とのこと。
これらを踏まえて改めて絵図に当たってみると、ありました。
御泉水屋敷(現在の養浩館庭園、および福井市立郷土歴史博物館)の北西、現在の公衆浴場「宝永湯」付近です。
正徳4年当時の藩主は8代吉邦です。力丸家も代替わりしていて、こちらは5代又左衛門本雅です。

番外2-3 慶長18年(1613)頃、現在の「城町」バス停留所付近

「デジタルアーカイブ福井」で検索できる絵図の中には、検索からそのまま画像を閲覧できる絵図もあります。
A0143-21309 松平文庫「[北之庄城郭図]」は、慶長18年(1613)頃の城下を描いた絵図です(文政4年(1821)写)。
番外2-1の場所にはありません。番外2-2の場所にもありません。
この「[北之庄城郭図]」には「御城下絵図別記」のような別添資料もありませんので、こうなったら一軒一軒当たっていくしかありません。
力丸、力丸、力丸、石丸治右衛門、乙部九郎兵衛、力丸藤左衛門、ありました。
本丸の東、東三の丸の中、現在の「城町」バス停留所付近です。

「松平文庫「[北之庄城郭図]」(部分、「力丸藤左衛門」は中央、上が北)」。

「松平文庫「[北之庄城郭図]」(部分、「力丸藤左衛門」は中央、上が北)」。

慶長18年頃の藩主は2代忠直です。これは表1の「2代松平忠直、800石、力丸藤左衛門」でしょう(初代藤左衛門勝時か)。
なお、忠直代にはもう一人、「200石、力丸左次右衛門」という人物もいたようですが、残念ながら、こちらは探し当てることができませんでした。

ところで、同じ慶長18年(1613)頃の城下を描いた絵図は他にもあります。A0029-00050 森永与右衛門家文書「慶長御城下絵図」は、福井藩士浅井(1)家(『福井藩士履歴 1 あ〜え』60頁〜62頁)が旧蔵していた絵図です(年未詳(明治20年(1887)以前)写)。
東三の丸に「力丸藤左衛門」「廿三間廿一間」とあります。ここまでは「[北之庄城郭図]」と同じです。しかし、この「慶長御城下絵図」には、さらに「八百石」そして「番外」とあります。
「[北之庄城郭図]」ではわかりませんでしたが、この頃、藤左衛門は番組から外れていたようです。

番外2-4 寛文期(1661〜1673)以前、現在の福井鉄道「足羽山公園口」駅付近に屋敷、そして組屋敷

A0143-21315 松平文庫「[御城之図]」A1043-21318 松平文庫「御城下之絵図」は、番外2-3から約半世紀後の寛文期(1661〜1673)以前の城下を描いた絵図です。 前者には「力丸藤左衛門」の屋敷が、後者には「力丸又左衛門」の屋敷がありました。番外2-1と同じ場所です(足羽川の舟渡(現在の幸橋)の左岸、現在の福井鉄道「足羽山公園口」駅付近)。

「松平文庫「[御城之図]」(部分、「力丸藤左衛門」は右上、右が北)」

「松平文庫「[御城之図]」(部分、「力丸藤左衛門」は右上、右が北)」

「松平文庫「御城下之絵図」(部分、「力丸又左衛門」は右上、右が北)」

「松平文庫「御城下之絵図」(部分、「力丸又左衛門」は右上、右が北)」

後者の「御城下之絵図」は、枠線の中に切紙や付箋が貼りつけてあります。それが、ところどころはがれているようです。 前者の藤左衛門の屋敷地も、後者は空白になっていますので、もしかすると、はがれてしまったのかもしれません。

さて、ここまで力丸家の屋敷を探してきました。 ところが、この「[御城之図]」と「御城下之絵図」をよく見てみると、藤左衛門や又左衛門の屋敷とは別に「力丸藤左衛門与」という屋敷があります(松平文庫「[御城之図]」(部分)・松平文庫「御城下之絵図」(部分)の左下)。 現在の福井県道180号と北陸本線の立体交差付近です。

同時期の他の絵図を見てみると、A0143-21314 松平文庫「[御城下之図]」A0143-21319 松平文庫「御城下絵図」にも「力丸藤左衛門与」とあり、A0143-21317 松平文庫 「[御城下之図]」には「力丸藤左衛門組」とありました。

「松平文庫「[御城下之図]」(部分、「力丸藤左衛門与」は左下、右が北)」

「松平文庫「[御城下之図]」(部分、「力丸藤左衛門与」は左下、右が北)」

「松平文庫「[御城下之図]」(部分、「力丸藤左衛門組」は左下、右が北)」

「松平文庫「[御城下之図]」(部分、「力丸藤左衛門組」は左下、右が北)」

「松平文庫「御城下絵図」(部分、「力丸藤左衛門与」は左下、右が北)」

「松平文庫「御城下絵図」(部分、「力丸藤左衛門与」は左下、右が北)」

寛文期であれば、これは表1の「600石、力丸藤左衛門」、3代藤左衛門重時です(正保4年(1647)以前であれば、表1の「3代松平忠昌、800石、力丸藤左衛門」、2代藤左衛門治時)。
3代重時であるとすると、「給帳」(松平文庫「源光通公御家中給帳」)から知行、松平文庫「諸士先祖之記」から家督相続年・生国・初名しかわかっていませんでしたが、絵図という意外なところで「組」頭を務めていたことがわかりました。
なお、2代治時であるとしても、組役は未詳でしたので、新たな事実です。

堀井 雅弘(2020年(令和2)8月1日作成)