今月のアーカイブ Archive of the Month

「参詣・湯治・名所めぐり -江戸時代の旅のすがた-」

江戸時代の旅姿(女性)
日常生活を離れ、普段とはちがった体験ができる「旅」は、江戸時代では寺社参詣や湯治を目的とした旅が中心でした。
今回は当館所蔵の旅日記や記録類から、 当時の寺社参詣・湯治・名所めぐりのようすを紹介します。
また、旅にまつわるトピックもあわせて紹介します。

会期

平成23年6月24日(金)~8月24日(水) 文書館閲覧室

展示ケース内のおもな資料

二十四輩(にじゅうよはい)旧跡巡りのおみやげ>
二十四輩旧跡巡りの「記念品」 1777年(安永6)
吉川充雄家文書(当館蔵) C0037-00550
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二十四輩は浄土真宗の開祖親鸞の高弟24人のことで、 古くからその旧跡巡りが行われていました。
これらは、金津(あわら市)の染物屋、紺屋又右衛門が親鸞ゆかりの旧跡を巡拝した際に手に入れたものです。いずれも親鸞の起こした奇瑞として伝えられていたり、高弟の墓の傍らに植えられていたりしたもので、当時のガイドブック『二十四輩順拝図会』にも描かれています。
「道中記」一 吉野屋文書
道中記 1791年(寛政3)
吉野屋文書(当館蔵) B0030-00169・00170
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約1か月半にわたるお伊勢参りと名所めぐりの旅を詳細に記録した旅日記です。2冊めが欠けており、不明な部分もありますが、日記によれば4月13日に福井を出発し、1週間後には宇治山田(伊勢神宮)に到着、その後は奈良を回って兵庫・大阪・京都をめぐり歩き、6月2日に無事福井に帰宅できたようです。
その間、途中昼飯に立ち寄った茶屋、泊まった宿の名前、文化財を間近に見ての感想など、道中のあらゆる事が細かく記されています。
また、所々で脇道にそれ、京では1日じっくり芝居見物を楽しむなど、余裕をもった旅であったことも分かります。
「四国西国巡礼道中記」包紙 飯田広助家文書
「四国西国巡礼道中記」包紙 飯田広助家文書
四国西国巡礼道中記 1872年(明治5)
飯田広助家文書(当館寄託) G0024-04991
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江戸時代、伊勢神宮・善光寺・本願寺への参詣だけでなく、四国に点在する弘法大師(空海)の旧跡(八十八箇所霊場)をめぐる「遍路」もさかんに行われました。
これは1872年(明治5)4月1日に今庄を出発し、山城・大和・伊勢・伊賀・紀伊をめぐった後、四国に渡って八十八箇所巡礼を終え、大坂を経由して7月13日に帰宅するまでの103日間の旅の道中記です。
宿泊や参拝の記録はもちろんですが、出立前の荷づくり、餞別を誰からいくらもらったかまで記されています。
参宮の土産リスト
「参宮之みやけ」
勝見宗左衛門家文書(当館蔵) B0037-00297
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元来「みやげ」とは寺社詣でをした際に、詣でた神仏の恩恵を分かち合うために、持ち帰ったお札(もしくは縁起物)を地元の人々に配るというものでした。
しだいに門前には市が発達し、寺社の縁起物のほか、その地の産物が売買されるようになりました。
上のみやげの「覚え」には有名な寺社(伊勢神宮か)の土産が書きとめられており、 当時は扇子、くず粉、数珠などが土産物として売られていたようです。
『東海道名所図会』 草津追分
『東海道名所図会』 1797年(寛政9)
吉川充雄家文書 C0037-00551~00556
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これは1797年(寛政9)に出版された東海道のものです。見開きページを使った迫力ある鳥瞰図や宿場ごとに人々の風俗を巧みに写した挿し絵が興味深く、多くは当初から挿し絵を担当した大坂の絵師竹原春泉斎によるものです。作者の秋里籬島は日本各地を取材旅行し多くの娯楽的読物やガイドブック(「名所図会」)を著しました。平易でのびやかな文章にくわえ、軽快でしゃれた挿し絵で人気を博し、18世紀後半から19世紀初めにかけて多くの著作が残されています。
吉川家は代々紺屋又右衛門を称し、金津で紺屋を営んでいました。
『西洋道中膝栗毛』
『西洋道中膝栗毛』 1870~76年(明治3~9)
坪田仁兵衛家文書 C0005-00636~00658
明治初期に刊行された仮名垣魯文(かながきろぶん)作※の滑稽本です。
その名の通り、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をまね、弥次郎兵衛・北八と同名の孫が、はるばるロンドン万国博覧会を見物に行くという設定です。
作者の仮名垣魯文は幕末期から活躍した戯作者で、『安愚楽鍋』やこの作品で開化期の世相を風刺的に描き、新聞でも活躍しました。

※全15編中、第12編以降は総生寛が執筆を担当。

旅よもやま話 その1.旅の服装と餞別

江戸時代の旅姿(男性)
江戸時代の旅の服装としては図のような服装が一般的ですが、飯田広助家文書の巡礼道中記には、次のような身じたくをこしらえて京都に送り、京都で着替えたとあります。

白い負ツル(笈摺(おいづる) 袖の無い白衣)、白い長ジバン、白い股引(ももひき)、白いヅダ袋(頭陀袋)、白い笠当(かぶり笠の内側の頭に当たる所につける小さい布団のようなもの)

巡礼用の服装とそれ以外の旅の服装とは区別されていたようです。
また、餞別についての記述もあります。誰に何をもらったかを具体的に記録しておりお金の他に、 お菓子・砂糖・木綿・いりこ(米や大麦を煎って粉にしたもの)などももらっています。餞別をもらった人には土産を買うことも忘れませんでした。

旅よもやま話 その2.宿泊施設

『大日本細見道中記』 福井県内の旅籠・休所
『大日本細見道中記』 1851年(嘉永4)
野尻喜平治家文書 I0076-01223
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東海道・中山道はもちろんのこと、北陸道、若狭路、高山・福井間といった経路も集録し、 関所、距離、宿名、さらには三都の名物まで、様々な情報がポケットサイズに集約されています。
江戸時代の宿泊施設としては大名や公家らが利用する本陣・脇本陣、一般旅行者のための旅籠屋・木賃宿などがありました。旅籠屋は食事を提供する宿、木賃宿は薪代(木賃)を払って自炊する安宿です。
展示ケースに、県内の宿場と旅籠屋・休所を紹介した宿帳を展示しています。
●は旅籠、▲は休所を示しています。

旅よもやま話 その3.こんな湯治も…

雄島村での「潮湯治」の記事湯治といえば温泉。では潮湯治といえば?潮湯治とは病気治療のために海に浸かることです。
越前藩主松平茂昭は1868年(明治元)に脚気療養のために三国へ潮湯治に行っています。ちなみにレクリエーションのために海に入る海水浴という習慣が生まれたのは明治に入ってからですが、 潮湯治の流れをくむ病気療養のための海水浴も長く続きました。

1890年(明治23)7月31日『福井新聞』

ポスター

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開館時間

開館時間  9:00~17:00
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      第4木曜日