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『福井県史』通史編3 近世一
たという(仏国寺所蔵武田氏系図)。しかし元明が旧臣を再び従えて武田氏を再興することは許されず、武田氏旧臣は新たに入部した...丹羽長秀と若狭国侍 永禄十一年(一五六八)八月に武田氏当主の元明が朝倉氏に従って越前に移った後、若狭の武田氏旧臣は、将軍義昭を奉じて諸国を...localhost/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-03-01.htm -
『福井県史』通史編2 中世
第一節 応仁の乱と朝倉・武田氏 五 武田氏の丹後経略 武田元光・信豊の丹後出兵 大永六年十二月、武田元光は細川高国の要請で...尊経閣文庫所蔵文書四八号)。上洛した武田軍は、二月十三日の桂川合戦で大敗北を喫した。この武田氏の混乱に乗じて四月、若狭の浦々...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-01-05-02.htm -
福井県史年表(1521年~1540年)
10 武田元光,幕府および細川高国邸で猿楽能を張行する[親孝日記,二水記]. 1521 大永1 11 19 武田元光,若狭に下る[実隆公記,二水記]....1522 大永2 3 2 三条西実隆,3月13日の武田元信百日忌のために,武田元光に法華経寿量品を贈る[再昌草]. 1522...localhost/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn22.html -
『福井県史』通史編2 中世
き、やはり武田氏の重臣であった粟屋勝久の外護を得ている。粟屋勝久は永禄六年から十二年にかけて武田氏に背き、武田氏から出兵...早瀬)を武田氏の家臣粟屋越中守の外護を得て開創している。また臥竜院七世才庵俊藝の弟子の聯山祖芳は、文亀二年に武田元信の外...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-02-02-14.htm -
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1551 天文20 7 10 武田元光が死去する〔武田系図,(9)羽賀寺-27〕. 1551 天文20...)滝谷寺-61〕. 1556 弘治2 10 6 武田信豊が死去する〔武田系図〕. 1557 弘治3 10 11 観世宗節...localhost/fukui/07/nenpyo/rekishi/Excel/1541-.xlsxSun Nov 29 16:39:32 JST 2020 21.7K bytes 1 views -
『福井県史』通史編2 中世
劒神社文書三六・四〇号)、祈願所の特別保護については武田氏の場合のように明確に知ることができない。 表64 朝倉・武田両氏の祈願所 朝倉・武田両氏の寺社掌握や...倉氏と武田氏の祈願所のうち主なものを表64に示したが、祈願所は大名個人の祈願を目的として設定されたものである。武田氏の祈...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-01-03-05.htm -
『福井県史』通史編2 中世
第四節 戦国期の文芸 二 武田氏の文芸 小浜文芸の一支柱 武田氏の小浜文芸を支えた人びととして、武田一族の禅僧らの活躍がある...、これは武田氏やその家臣はもとより「禅家さへ」もと読み取れる。つまり禅僧と和歌とはなじまないのに、小浜では武田一族の禅僧...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-6-01-04-02-05.htm -
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飯川氏と結んで小浜月充を未進していた武田元信が,催促に応じて納入する〔実隆公記〕. 1502 文亀2 5 6 内裏料所遠敷郡吉田荘・三宅荘,武田氏の徴...公記〕. 1502 文亀2 6 武田氏の段銭徴収に反対して国衆・百姓が小浜を攻め,武田中務大輔・同子弥五郎を討ち取る〔実隆公記〕....localhost/fukui/07/nenpyo/rekishi/Excel/1501-.xlsxSun Nov 29 16:37:47 JST 2020 23.1K bytes 1 views -
『福井県史』通史編2 中世
充を未進していた武田元信が催促に応じて納入したとある(『実隆公記』同日条)。享禄元年九月六日には守護武田元光が納入した小...あるが、史料上確認できない)。 文明九年八月六日、若狭守護武田国信は公家の広橋兼顕に対して、禁裏料所である小浜月充(御供...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-5-01-02-04-06.htm -
『福井県史』通史編2 中世
除や恒枝保との相論などで交渉する相手は武田であったし(し函五四、リ函二五九)、武田はしばしば上洛もしているので、京都と若...、やはり小守護代武田であったというべきであろう。 応永十三年の小笠原氏の失脚にともない、小守護代も武田長盛から長法寺納に...localhost/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-02-02-03.htm