大永二年の三月二日のこと、京都の三条西実隆は来る十三日が元信の百日忌と聞き、武田の新当主の元光に法華経寿量品を贈り、一首を添えた。そこで元光が返歌したことはいうまでもない(『再昌草』)。実隆はまた元光から十首・三十首・八十首・百首などの詠草を送られたとき添削して返送したことがかなり知られるが、先にみたように、大永六年の暮に上洛した元光は、まず実隆と和歌を通じて交流した。
元光はまた父祖の伝統を守り騎射に優れ、小浜の発心寺に秘蔵する元光の犬追物検見の画像に加えた孫の英甫永雄の賛に、「鶏群忽ち来る北嶽の鶴、馬蹄恣に追う西旅の (猛犬)」とみえる。確かに元光は犬追物の検見をしたこともあるし(「弓馬雑纂」四)、「騎射秘抄」「犬追物日記」「射手検見次第」などの故実書を写してもいる。これらの書写は、ほとんどが天文七年(一五三八)の引退後のことで、安堵感もあったかもしれないが、このころ武田領国には下剋上の動きがあり、領国支配の行き詰まりに元光は武田氏の危機を感じ取っていたのであろうか。すなわち元光のいたりついた文芸は、危機の意識としての文芸といってよいであろう。
元光のあとを継いだ長男の信豊は、天文七年の重臣粟屋元隆らの反乱を切り抜けたが、同十一年河内太平寺(大阪府柏原市)に武田軍は惨敗し(『言継卿記』同年三月十七日条)、その勢威の衰えは誰の目からみても明らかであった。そうしたとき信豊はかつての武田の栄光を思いおこし、家伝の騎射に注目して「弓馬聞書雑々」三巻を工夫して写したのをはじめ、約三〇種の弓馬故実書を書写した。しかもそのほとんどが弘治二年(一五五六)の八月に集中している。それはこのころおきた長子義統との争いにかかわり、信豊が父元光以上に武田の危機を自覚したことに大きな原因があったろう。また晩年にはわが子信景・信方の質問に答え「故実問答」を著わしている。
信豊はまた天文元年には、自らが所持する飛鳥井雅康筆『詞花和歌集』に後柏原院勅筆の外題を添えてもらえるよう、実隆に依頼して贈られた(『実隆公記』同年十一月二十六日条など)。天文八年正月六日に始筆の和歌、初子の日七日には連歌の発句を詠み、世の人びとの話題にのぼったし、天文二十一年三月には神宮寺での細川晴元との和歌贈答などが知られる(資9 羽賀寺文書二七号)。翌二十二年秋冬に若狭に立ち寄った連歌師宗養は、長源寺・玉花院・谷田寺・妙興寺の連歌会に臨んだのち遠敷関に発句したが(「若狭郡県志」)、そののちまた小浜に下向したときには連歌用語の注解書「宗養言塵伝集」を信豊に授けたという。信豊は吉田兼右とも交わり、永禄元年(一五五八)五月に小浜へ下向した兼右から「八雲神詠口決」「猿楽翁大事」などの神道関係の諸秘事を伝受した(「兼右卿記」同年五月十一日条)。ここに「古筆短冊手鑑」に収める「寄橋恋」の題で詠んだ信豊の和歌を記して、ひとまずしめくくりとしよう。
しのぶるはくるしき物を岩橋のよるとは人になどか契りし 信豊
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写真317 武田信豊懐紙
(「古筆短冊手鑑」)
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