「藤野先生の手紙2 -仙台医専への道-」
          
          藤野厳九郎(1911年)
          東北大学附属図書館医学分館所蔵
          魯迅研究プロジェクト提供
          明治34年(1901)は、医学専門学校が相次いで開校した時期で、全国的に解剖学の教官が不足していました。
          当時、愛知医学校に在職していた藤野厳九郎は、金沢、仙台の2校から着任を要望されますが、結果として愛知の強い慰留によって希望していた金沢への転任は、かないませんでした。
          そしてその後、赴任した仙台で留学中の魯迅に出会うことになります。
          ここでは、明治33年から34年にかけて藤野厳九郎が受け取った手紙を通して、「藤野先生」が仙台医学専門学校へ赴くに至った経緯を紹介しました。
          会期
          平成19年4月27日(金)~5月23日(水)
          藤野厳九郎家文書について
          
          金沢から就職を依頼する手紙
          
          
          
          
          C0125-00103 1900年(明治33)6月21日
          これは東京帝国大学医科大学教授の小金井良精(よしきよ)の紹介を受けて、 当時、第四高等学校医学部(翌年金沢医学専門学校)主事の山崎幹が 藤野厳九郎に解剖学助教授就任を依頼する手紙です。
          
          第二高等学校への転任を依頼する手紙
          
          
          
          
          C0125-00106 1900年(明治33)8月10日
          これは第ニ高等学校医学部教授の斎藤勝寿が藤野厳九郎に解剖学教官への就任を依頼する手紙です。
          研究用の屍体数、書籍数、実験費、設備などが愛知より好条件であると強調しています。
          
          「愛知医学校教諭辞令」「休職辞令」
          
          C0125-00029
          1900年(明治33)9月11日
          
          C0125-00232
          1900年(明治33)9月28日
          金沢、仙台の2校からの誘いを受けていた藤野厳九郎は、在籍中の愛知医学校の強い慰留策のため、教諭昇任早々に休職となり、希望していた金沢への着任はかないませんでした。そして翌年、東京帝国大学の大沢岳太郎の仲介によって
          仙台への着任が実現しました。
          仙台からの回答を転送する手紙
          

 
          
          
          
          C0125-00115
          1901年(明治34)10月15日
          これは、東京帝国大学医科大学教授大沢岳太郎から藤野厳九郎への手紙です。 確実に講師として採用することを伝える仙台医学専門学校教授 敷波重次郎から大沢への回答が同封されていました。
          
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