今月のアーカイブ Archive of the Month

「文久三年のあつい夏 -『御用日記』から読む小楠と福井藩-」

長崎で買い入れた蒸気船黒竜丸が 越前へ回漕され、龍馬が福井にやってきた文久3年(1863)5月。おりしも福井藩では、横井小楠の主導で 挙藩上洛計画が立案されていました。
春嶽に近侍した側向頭取がしたためた「御用日記」には頻繁に訪れる面会者やたび重なる城下巡視ルートが詳細に記され、その変化から藩論の転換を読み取ることができます。
この展示ではこれまで断片的にしか紹介されてこなかった「御用日記」のうち 文久3年3月末から8月までを読み解き、その舞台となった福井城下の屋敷絵図を復元します。

会期

平成23年8月26日(金)~10月26日(水) 文書館閲覧室
展示説明会 平成23年9月11日(日)9:30~10:30 文書館閲覧室

春嶽側近の執務記録 側向頭取「御用日記」

文久3年 側向頭取「御用日記」1 松平文庫文久3年 側向頭取「御用日記」2 松平文庫
松平文庫(福井県立図書館保管) A0143-00511-00526
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文久三年の小楠と福井藩

横井小楠肖像写真 『横井小楠伝』
横井小楠肖像写真
『横井小楠伝』
横井小楠(1809-69年)は熊本藩士でありながら福井藩に招かれて政治顧問となり、 藩政や幕政改革に大きな役割を果たし、その開明的な思想は坂本龍馬や勝海舟をはじめ幅広い人々に影響を与えました。
「小楠」は彼が称した号で、名は「時存(ときあり/ときひろ)」、通称は「平四郎(へいしろう)」といいました。
熊本藩の藩校時習館の塾長を務め、江戸遊学の経験ももつ儒学者でしたが、小楠が目指した藩校改革は失敗におわり、藩からは疎まれていました。そうした小楠のもとを福井藩士三寺三作(みでらさんさく)が訪ねたのは嘉永2年(1849)。その2年後には小楠自身が西日本の遊歴途中に福井を訪れて前後3週間あまり滞在、そのすぐれた学問思想は大きな感銘を与えました。翌年には福井藩のために「学校問答書」を書き送ってくれました。
安政4年(1857)、藩主慶永(春嶽)は小楠を政治顧問として福井へ招きます。福井へ到着したのは翌年4月、小楠50歳のときでした。この数か月後には安政の大獄がはじまり慶永は隠居・謹慎処分となりますが、福井にとどまった小楠は藩校明道館をはじめ、藩政全体に大きな影響を及ぼしていきます。
小楠は真の君主や武士のありかた、 あるべき政治のすがたを徹底的に論じ、民を豊かにすることが富国につながり、強力な国家をつくること、外国とは道理に基づいて交際し、交易を行うべきだと説きます。
小楠の指導をえて、福井藩は殖産興業策を推進し、小楠自身はそれらをもとに万延元年(1860)10月に「国是三論」をまとめ、理想とする藩・国家像を描いてみせました。
翌文久元年(1861)、小楠は出府しはじめて春嶽に面謁、あらためて強い感銘を与えます。その後文久2年7月、春嶽が幕府の政事総裁職に就任するや小楠はブレーンとして幕政改革に活躍しました。しかし、この年末に暗殺団に襲われて逃げた「士道忘却事件」によって小楠は、熊本藩の処分を避けるため福井に送られていました。翌年2月から京都へ上った春嶽は公武一致して外国にあたろうとしますが、小楠を欠いた痛手は大きく「全く術計尽果て」、3月下旬には辞表を届捨てたまま福井にもどり、逼塞の処分を受けていました。

福井藩の挙藩上洛計画とは?

福井藩の挙藩上洛計画は未発の事件であり、その詳細は十分に解明されているわけではありませんが、『続再夢紀事』「御用日記」などの資料をつきあわせるとその概要は次のようになります。
計画が鮮明になってきたのは文久3年(1863)5月のことでした。朝廷から攘夷決行を迫られた幕府が外国と談判を開始すれば、場合によっては外国船が大坂湾に侵入して、朝廷との直接交渉を要求するような事態も想定されました。こうした状況を打開するために、農兵を含む 4000 の兵を率いて、前藩主春嶽と藩主茂昭以下藩士一同が再び帰国しない覚悟で上京し、次の2点を朝廷・幕府に建言しようというものでした。
(1)将軍上洛中の好機をとらえて、各国公使を京都に呼び寄せ、朝廷・幕府の要人が列席して談判を開き、万国至当の条理を決定する。
(2)近年幕府の失政が多いのは幕吏に人材がいないからで、今後は朝廷が裁断の権を掌握し、賢明の藩主に国政参与を命じ、役人も広く諸藩から登用する(小楠書簡『続再夢紀事』)。
小楠が主導したこの計画は、数日の大議論をへて5月26日にはいったん決定されました。そして28日には挙藩上洛の心得が達せられ、翌29日には翌月11日に予定された藩主茂昭の江戸参勤出発もとり止めとなったことが触れられました。
しかし、5月30日京都から帰った中根靱負が「両公の上京、未だその機にあらず」と主張し、6月4日の評議では小楠も再度京都に人を送り、時機を確かめるという譲歩案を出して、牧野主殿介(大番組1組引率)・青山小三郎・村田氏寿らがそれぞれ京都へ派遣されました。
その後6月7日に中根は将軍不在の京都へ上るよりも、江戸参勤の義務を果たすべきとして小楠支持派と激論を戦わせ、ついに藩論分裂の責任をとって蟄居のうえ、隠居を命ぜられました(14日)。
中根を排除した小楠支持派は17日には領内に御用金55万両の賦課を命じ、18日には茂昭の持病を理由に幕府に参勤延期の届を提出しましたが、前後して幕府から参勤出府を督促する達書が届き藩論は動揺します。さらに、7月5日には熊本藩・鹿児島藩へ協力要請のために家老岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)らが出発しました。入れ違いで7月6日福井へ戻った村田は、朝廷内には近衛忠煕ら穏健派によって、 広く大名に意見をもとめて親征の可否を決するべきを建議する動きがあるので「急々上京は適当ではない」と復命しました。
さらに18日には参勤延期の真の理由を述べた嘆願書を携えた毛受鹿之助が江戸にむけて出発しますが、同日にもたらされた「京便」によって嘆願書の提出は見合わせられることになり、毛受は今庄からよび戻されて、計画の中止は決定的となりました。藩内では、この後も徹夜の議論があり、なお上洛を主張した家老本多飛騨らが7月23日に罷免され、最も強硬論を主張した長谷部甚平と不在ながらそれと同列とみなされた三岡八郎らもその後蟄居を命ぜられました。
8月中旬には小楠も福井を去り茂昭は参勤のため江戸に出立しました。

黒竜丸に乗り組んできた小曾根乾堂

現代語訳文久3年5月18日条 「御用日記」松平文庫
文久3年5月18日条 「御用日記」松平文庫
福井藩が購入した木製蒸気船黒竜丸は文久3年5月10日、長崎から越前へ回漕されました。黒竜丸は乗員65名、大砲2門を装備した米国製の運送船で、長崎の豪商小曾根乾堂も乗り組んできたことがわかります。
小曾根は春嶽に「大蘭鏡」*を献上しています。この船にはこの後、7月上旬に家老岡部豊後・三岡八郎(由利公正)らが熊本へ派遣された際に乗船しました。

*「大蘭鏡」が何であったかはよくわかりませんが、大きなガラスの鏡、あるいは顕微鏡とも考えられます。

6月4日、再び時機確認に京都へ

『続再夢紀事』稿本
『続再夢紀事』稿本 松平文庫
5月30日に京都から帰った中根靱負が 「両公の上京、いまだその機にあらず」と慎重論をとなえたので、6月4日には小楠も加わり、執政(家老)以下の要職が集まって 詮議が行われました。
熟議を求める中根に対して、小楠は「両公の上京はすでに決定されたことだ」としながらも、再度人を京都に送って、時機を確認するべきかと発言し、春嶽・茂昭、家老はじめ一同が同意しました。
このあと、大番隊一組を率いた牧野主殿介、青山小三郎、村田巳三郎(氏寿)が 京都へ派遣されました。
なお、冒頭部分は5月26日付けで熊本の門人たちにあてた小楠の手紙の後半部分で、当初上洛の規模は「家中の若者や訓練された農兵を選び、おおよそ四千余」とされていたことがわかります。
24日から開始された大評定がこの日に決着し、君臣ともに必死を誓い上洛することになったと報告しています。

6月5日、最初の城下巡視

6月1日には藩士一同が城中本丸に集められ、春嶽・藩主茂昭が臨席して酒・肴が振る舞われ、挙藩上洛の決意が確認されました。その後5日の城下巡視です。
春嶽は夕方七つ時(午後4時半頃)に行列を整えて出発、山県三郎兵衛下屋敷で藩主茂昭と待合せる予定で、洋式銃を鋳造していた志比口の制産局に入りました。ここでは「地雷火仕掛」と小銃鋳造のようすを視察、局中の役輩たちを激励。その後山県下屋敷へ立寄り、ついで調練場に入り場内を見分。馬上からしばらく練兵のようすを視察しています。
このように、この日の巡視は制産局・調練場という軍事上の最重要ポイントを押さえたものでした。安政4年(1857)来江戸にあった春嶽はこの3月、6年ぶりに福井に戻りましたが、逼塞処分にあって城下に姿を現すことはありませんでした。
この巡視は春嶽の健在ぶりを衆目に示す隠居後最初の城下パレードでもあり、兵備担当や農兵を含む部隊をおおいに鼓舞することになったと推測されます。
この後、八月末までに10回以上におよぶ城下廻りがおこなわれています。6月19日には小楠客館でも臨時休息しました。
6月5日 春嶽の城下巡視ルート
七つ時(午後4時半頃)発 御供揃 御住所御門より西尾久作屋敷横前、神明前通り、宇都宮勘ケ由屋敷前横、磯野右近屋敷前横、清兵衛町御門、武田政十郎屋敷前横、江戸町通り、津田左蔵屋敷前横、田辺五大夫屋敷前横町通り、松本四ツ辻、西蓮寺前志比口通り、制産局へ御立寄遊ばされ、夫より野道通り山縣三郎兵衛下屋敷へ御立寄、 夫より裏細道より浄水御渡り、野道通り、外地蔵町、同所御門、日比彦之丞屋敷前、 松原伝五右衛門屋敷横前より割場所御門、栃屋政之助横前、伊東六郎兵衛屋敷前横、中ノ馬場通り、堂形調練場裏門より被為入、場所御覧、役輩調練有之ニ付、御馬上そのまま暫時御覧遊され、夫より元之御門より三寺剛右衛門屋敷前、漆御門、杉田壱岐方屋敷横前、鉄御門、夫より御住所へ入らせらる

7月6日、村田巳三郎帰着

7月5日には三岡八郎(由利公正)らが熊本藩・鹿児島藩に協力を要請するために出発しました。入れ違いに6日早朝、村田巳三郎(氏寿)が京都から戻り、「急々上京は適当ではない」と復命します。
朝廷内には穏健派の近衛忠煕らによって広く大名に意見をきいて、親征の可否を決めるべきと建議する動きがあり、これが決定されれば上京が要請されることになるから急ぐべきではないというものでした(『続再夢紀事』)。

7月18日、京便着

文久3年7月18日条 「御用日記」 松平文庫この日に福井藩が参勤を延期している真の理由を述べた嘆願書をもって毛受鹿之助が江戸へ出発しました。
「御用日記」を読むと正午頃に届いた「京便」によってこの日予定されていた城下廻りが延期されたことがわかります。さらに夕方七つ時過ぎ(午後5時頃)から家老らが残らず召集され、その会議の結果、毛受が今庄から呼び戻されることになりました。
この京便が春嶽に計画中止を決断させた重要なきっかけとなったと考えられますが、 詳細はわかりません。

8月9日、小楠別れの宴

挙藩上洛を求める小楠支持派が罷免された7月23日以降で春嶽と小楠が対面したのは小楠から面会を願い出た翌24日、27日、そしてこの送別の酒宴が催された8月9日の3回のみです。
この宴には春嶽はみずから狩猟でえたゴイサギを持参しました。家老本多興之輔らが同席した会が終わったあとで、小楠は再度、仮御用部屋において酒・肴と簡単な食事を頂戴したと記されています。
このあと、小楠は11日夜半(四つ時、午後10時半頃)に客館の裏手から舟で三国へ下り、熊本へ帰りました。
文久3年8月9日条 「御用日記」 松平文庫
現代語訳

製造局で量産された洋式武器類の設計図

福井城下志比口に設けられた製造局(この時期には制産局)で 鋳造されていた洋式大砲・小銃の図面類です。
袋の裏面の記述からこれらの設計図を描いた佐々木権六(長淳、1830-1916)が明治20年代に入って、整理したものと思われます。
広げた図面は、それまでの燧石による着火装置を安政元年(一八五四)に起爆薬を詰めた雷管式に改良したものです。
「和蘭歩隊銃」はゲベール銃(小銃)と呼ばれたもので、全長は1.36メートルあります。
「製造局御用品ノ内大砲小銃絵図類中抜粋」松平文庫
「製造局御用品ノ内大砲小銃絵図類中抜粋」松平文庫

黒竜丸は薩摩に貸与、制産局は郡奉行支配下へ

「慶永公ヨリ茂昭公江被遣御書翰留」天
「慶永公ヨリ茂昭公江被遣御書翰留」天 松平文庫 福井県立図書館保管
これは鈴木準道(初代福井市長、松平家家扶)が写した慶永の茂昭あて書簡で、安政5年(1858)8月から明治初年までの約90通が含まれています。このうち文久3年8月20日過ぎから晦日までの30通ほどは、すべて参勤途上で八・一八政変の急報をうけて大垣に滞留中の茂昭にあてたものです。
なかには、蒸気船黒竜丸を薩摩藩へ貸与する件などはすでに原本から翻刻(『松平春嶽未公刊書簡集』所収)され紹介されているものもありますが、多くは同書にも掲載されず、原本の所在は確認できません。
春嶽は茂昭の参勤発途前に評議しておくべき事がらとして「覚」(8月8日付、前掲『公刊書簡集』所収)を書き示していましたが、これとこの書簡群と比較すると、三岡八郎も含めた藩士の処分などはほぼこの「覚」にそって進められ、それが逐一茂昭に報告されたことがわかります。ここに藩主茂昭を立てながら、強い指導性を発揮する慶永の姿を見ることができます。
また「覚」にはない内容も含まれています。たとえば次の書簡もそのひとつで、処分された三岡らの拠点であった 「制産方」(制産局)を春嶽の専決で改編したことを報告しています。
翻刻文

人物相関図

人物相関図

文久三年夏の復元福井城下屋敷絵図

文久3年3月末から8月末までの「御用日記」には、10回を超える春嶽の城下巡視ルートが詳細に記され、刻々と変化する情勢に対応してその巡視ルートや休息先が変化しています。
ここでは松平文庫の「福井分間之図」(文化8年)をベースマップに 主要家臣の屋敷配置を修正・復元し、 春嶽の主な城下巡視6回分の具体的ルートを示しました。
絵図の上で春嶽の「臨時城下御廻り」を追体験できます。
復元福井城下屋敷絵図(春嶽仮御住所の周辺部分)
復元福井城下屋敷絵図(春嶽仮御住所の周辺部分)

製造局

製造局 「福井温故帖」 越葵文庫 福井市立郷土歴史博物館保管
「福井温故帖」
越葵文庫 福井市立郷土歴史博物館保管
製造局(文久3年夏には制産局)は安政4年(1857)、城下東北隅の志比口の南側に設けられた大規模な銃器製造工場です。
ここでは芝原用水を利用した水車を動力として用いたほか、製造所内に「細工場」を設け、城下の鉄砲職人を集めて洋式小銃の製造を命じるとともに、工場以外での鉄砲の取り扱いを禁じました。多くの職人が集まり、工場が閉鎖されるまでに7,000挺の洋式小銃が製造され、他藩からの注文にも応じたといいます。
これまで城下絵図に示されなかったので、敷地など詳細は不明でしたが、今回「御家中屋敷地絵図」(松平文庫)などをもとに、その位置を推定することができました。
復元福井城下屋敷絵図(製産局の周辺部分)
復元福井城下屋敷絵図(製産局の周辺部分)
ベースマップは「福井分間之図」(文化8年、松平文庫 福井県立図書館保管)

調練場

調練場 「福井温故帖」 越葵文庫 福井市立郷土歴史博物館保管
「福井温故帖」
越葵文庫 福井市立郷土歴史博物館保管
堂形調練場は嘉永5年(1852)、百間堀の南東側に設けられました。もと永見家屋敷を中心にほぼ南側半分でしたが、これによって大規模な調練が可能となりました。
なお、幕末期には農民を兵士に取り立てて軍事力の強化をはかろうという動きが 福井藩でも起こりました。文久3年(1863)1月には家臣の屋敷をつぶして北側に拡張し(復元城下屋敷絵図参照)、4大隊640人の農兵が配属され、調練を受けました。

イラストでみる小楠入門

イラストでみる小楠入門 熊本市文化振興課提供
熊本市文化振興課提供 (9/21で終了しました。)

ポスター

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