今月のアーカイブ Archive of the Month

「文書館でみつけた!-私と資料との出会い-」

福井県文書館の収蔵資料目録はインターネットからも検索でき、 見たい資料を探すことができますが、こうした文書館資料は利用されてこそその輝きが浮かびあがってくるものです。
そこでこれまで資料を閲覧した県内外の方々から、それを「発見」した際の驚きや見つけた資料からわかったことについて コメントを寄せてもらいました。
今月の展示では、「三くだり半」から御先祖の発見まで、ちょっと意外でおもしろい文書館資料との出会いを資料とともに紹介します。

会期

平成23年4月16日(土)~5月25日(水) 文書館閲覧室

テーマ

いちばん古い三くだり半

「去状之事」 玉村九兵衛家文書D0075-00171 福井県文書館寄託翻刻文
玉村九兵衛家文書 D0075-00171 当館寄託
高木 侃氏(専修大学教授)
10年も古い離縁状の出現、実際びっくりした。三くだり半の発生につき、関西から東漸したとする説に軍配。
1.最古の三くだり半
この意味は2つある。最古の離縁状であるとともに最古の三くだり半(三行半)でもある。
(1)これまで元禄9年(1696)8月3日の山梨県の手間状(p.98*)が最古のものであったが、これより10年古い。
(2)これまで元禄9年8月22日の栃木県の離縁状(p.65)が最古の三行半であったが、これが最古の三行半である。
2.「去状」である
これまでの古い離縁状はいずれも関東地方に属し、事書(ことがき)(「…事」と主旨を要約して記載した部分)が「かまい無御座候手間状之事」「相渡シ申手形之事」となっており、離縁状・離別状・去状などの離縁状書式が一般的に定着していない様子がみられる。これに対して、この離縁状は京阪から影響を受けていると思われるが、 関西に残存せず福井に残存した。
3.この時期に離縁状(三くだり半)の形式が整っていたこと
関西の用文章(書式集)では、貞享元年(1684)のものに離縁状書式がある(p.96)。本離縁状によって、この時期に離縁状書式が関西では整っていたものと推測される。ただし、本文の内容では離婚文言はなく、再婚許可文言のみである。
4.当事者の背景がわかると面白い
同じ1686年(貞享3)の中津原村少林寺の資料から、お滝の父三郎兵衛は中津原村の有力な百姓であったことがわかります。(少林寺文書 E0056-00010参照)

「天下一本」の浄瑠璃本

「天下一本」の浄瑠璃本3冊 桜井市兵衛家文書
桜井市兵衛家文書 N0055-00956~958 当館蔵
デジタルアーカイブ 浄瑠璃二重染の画像はこちら
デジタルアーカイブ 浄留利こうけ鴬の画像はこちら
デジタルアーカイブ 音曲蝶花形の画像はこちら
神津武男氏(早稲田大学高等研究所)
記憶力に自信のない私ですが、浄瑠璃本のタイトルだけは別。初めてみるタイトルに当たり籤(くじ)を引いた歓び。
江戸時代の文学書の内、日本六十余州に普く行き渡り、こんにちに伝存するジャンルは、筆者のみるところ、板本では「浄瑠璃本」と「謡本」、 写本では「実録」「軍記」に限られる。国語(日本文学)・日本史(近世史学)において今なお一般化していない、 日本文化史の一大特徴である。
浄瑠璃本とは、江戸時代初めに成立した「人形浄瑠璃」という演劇の台本・脚本のこと。浄瑠璃(語り物音楽)諸流派の内、最後に成立した「義太夫節」(初代竹本義太夫が貞享初め〈1684-5〉に、大坂道頓堀で初めて興行した時を創始時期とする)が最大の隆盛を誇り、十八世紀半ばには琉球にも運ばれ、また十九世紀初めロシアへ漂着した大黒屋光太夫は、帰国に際して携行した浄瑠璃本を彼の地に残した。また近代の大阪の浄瑠璃本板元は朝鮮・中国・台湾のほか、海外の日本人居留地にまで輸出したと伝えている。
では浄瑠璃本は日本国内にどれほど残るのか。筆者は国内の公共機関(図書館・博物館・歴史民俗資料館・文書館など)を尋ね歩き、1都1道2府41県に、公共機関328、 そして個人15の、合計2万3千冊余の所蔵を実見している。
浄瑠璃本のひとつの作品の上演時間は、日ノ出から日ノ入りまで半日を費やす贅沢なもの。そのすべての本文を一冊に収めた本を、A「通し本」という。対して一幕・一場面を抜き書きにした本を、B「抜き本」。また「道行」や「節事」などの優れて音楽的な部分を取り集めて一冊としたC「道行揃」という。
上記の調査は、厚紙の表紙をもち、糸綴じにされた、AとCを数えたもので、本文と同質の一枚を仮に表紙と見立て、紙縒で下綴じしただけのBは除いている。A「通し本」は343箇所に2万3千冊余を数え、C「道行揃」は69箇所に284冊を数えるのみ。 全数の1%ほどしか残らない道行揃はただでさえ稀少な資料である。しかも福井県文書館・桜井家文書の3点はいずれも、これまで同名書の存在の知られてこなかった、伝存唯一の本。こうした資料を「天下一本」と称えるが、それが三点同時に出現したことの驚きは、いまも記憶に新しい。
しかし、考えてみれば道行揃の希少性は現存284冊の内62冊、2割超が「天下一本」であるという点にこそ示されている。「木板本であるのだから、どこかに同板本が残っているはず」と考えられ、そのため歴史学分野では書写資料に比べて、 扱いが低かった(史料調査・保存の対象外とされてきた)。だが印刷本であっても、手工業による近世期の板本は書写資料に劣らず、個性的な唯一の資料である場合もまた少なくないのである。天下一本の道行揃は国内31箇所に所蔵される。 香川県立ミュージアムが7冊、神戸女子大学図書館が4冊、天理大学天理図書館・東京大学総合図書館・東京大学文学部・東京都立中央図書館 ・早稲田大学演劇博物館は各3冊。いずれも研究者個人や研究機関が意を尽くして近代になって収集した資料だが、収集資料の悲しさで伝来が判らない。
福井県文書館・桜井家文書は十八世紀前半頃の集書が伝世したもので、大坂板の道行揃が京板の通し本とともに残った。地勢的にも内容的にも大坂・京都の板元の商業圏なのだ、という単純ながら貴重な情報が得られるのは、伝来の地域で収集・保存することを旨とする 「歴史史料保存機関」なればこそ、なのである。

大庄屋文書で御先祖発見

福岡平左衛門家文書(複製本)
福岡平左衛門家文書 F0043-00001-029、00258
中條良英氏(越前市在住)
一族の中でいつの間にか分からなくなっていた昔のことが文書で現れる不思議な縁。

古文書から「青酸カリ」が?!

飯田広助家文書 福井県文書館寄託
飯田広助家文書 G0024-06476 当館寄託
吉田 叡氏(地域史家)
手紙には「青酸加里」の文字があり、異質な青い粉末を見ては、真っ先に体に緊張が走り、眼前の実物が何であるかとの不安に駆られました。
1.青い塊りの正体は?
手紙から出てきた青い顔料京都のとある大名の家来から鯖江藩の大庄屋にあてた手紙の中から紙に包まれた青い塊りが出てきました。
この時、文書館で古文書を整理していた吉田叡氏(当時資料調査員)は、 文中に「青酸加里」の文字を発見し、びっくり。「真っ先に体に緊張が走り、眼前の実物が何であるか」と不安になったと回想されています。
手紙から出てきた青い顔料
手紙は当時国内で生産されていなかった唐藍(からあい)を 鯖江藩の産物にしてはどうかと、その製造方法を内々に売り込むものでした。
唐藍・ベロ藍などと呼ばれた合成顔料のプルシアンブルーは長崎貿易を通じて輸入され、天然顔料よりも安価で色あせなかったため、1830年代以降には広く浮世絵や絵馬などに使用されました。
この手紙を当館の古文書講座で紹介すると、プルシアンブルーの国内での広がりを調査している研究者*がこの青い塊を分析してくれ、純度は低いもののプルシアンブルーが含まれていることがわかりました。

*勝盛典子・朽津信明「近世日本におけるプルシアンブルーの受容」『神戸市立博物館研究紀要』26、2010年3月参照
2.手紙に添えられた見本と2つの薬品
手紙は京都「四条通大宮西へ入 永井若狭守内」(永井直幹(なおもと))の家来で吉川左右祐という人物から、越前鯖江上新町の飯田彦太郎・出村屋吉左衛門へあてられたもので、作成年はわかりませんが、1850年から58年の間と考えられます。
手紙の添状には長崎貿易の抜け荷と疑われることを恐れて、また合成の技術を持っていることを示すために、徳利2本、すなわち「青酸加里」と「硫酸鉄」が添えられており、 2種類の液体を混ぜるとたちまち「藍の色」を発すると説明されています。他に「ミせ本」(見本)も送るとも記されています。
青い塊りが2種類の液体から得られたものか、見本として送られてきたものかはわかりませんが、包み紙には「二品 浅キ(黄)・紺」と書かれています。
青い顔料の包み
青い顔料の包み
添状  飯田広助家文書G0024-06476
添状 飯田広助家文書 G0024-06476

ロシア人の捕虜が鯖江にいた!

「鯖江俘虜だより」 『北日本』1905年6月4日
新聞「北日本」、アジア歴史資料センター提供資料も紹介。
夏梅建一氏(鯖江市在住)
日露戦争の終結から百年以上が経過し、私の住んでいる鯖江市でも歴史的事実を知っている人も少ないようです。以前の私もそうでした。
「俘虜収容所位置告示の件」 1905年(明治38)5月 アジア歴史資料センター画像提供
「俘虜収容所位置告示の件」1905年(明治38)5月
アジア歴史資料センター画像提供 C0302701110
「各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表」1905年(明治38)10月 アジア歴史資料センター画像提供
「各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表」1905年(明治38)10月
アジア歴史資料センター画像提供 C06040143000
1904年(明治37)の日露戦争開戦以来、約8万人のロシア人が日本側の捕虜(俘虜)となりました。この数字はロシア側の捕虜になった日本軍の将兵数の約40倍でした。
捕虜収容所としては松山市(愛媛県)がもっとも有名ですが、人数が増えたため、全国29か所に収容所が開設され、福井県内では鯖江と敦賀に置かれました。
日露戦争では両国とも捕虜を厚遇しました。ロシアは19世紀後半、軍縮とともに戦時国際法の整備をしようと率先して各国に働きかけ、最先端文明国の一員であることを示そうとしていました。そうした中で起こった日露戦争に際しても、国際法に準拠して関連の国内の諸法規を整備し、日本人捕虜の処遇に適用しました。日本もまた欧米諸国から優等生と認められ、一流国の仲間入りをすることが当時の国家目標でした。各軍に当代一流の国際法学者を配し、戦時国際法の実践に心がけたのみならず、国家として捕虜に対しても気を配りました。実際、ロシア人捕虜は各地で生活面の自由を享受し、温かく迎えられました。
鯖江では浄土真宗・本山誠照寺内に収容所が設けられました。 当時の新聞記事からは捕虜の生活だけでなく、一般人との交流のようすもわかります。
敦賀では、小学生との交流を報じた記事も残されています。

参考文献:『捕虜たちの日露戦争』吹浦忠正著(NHKブックス)
鯖江俘虜慰問心得(2)『北日本』1905年(明治38)5月2日付鯖江俘虜慰問心得(1)『北日本』1905年(明治38)5月2日付
要約
鯖江俘虜収容所では設備も整い、俘虜の自由散歩を許可したところ危険のおそれもないので、今回一般人民の慰問を許すことになった。
慰問者の心得をここに抜書きする。
(『北日本』1905年(明治38)5月2日付)
「捕虜の足羽山登り」『北日本』1905年(明治38)6月4日付要約 自由散歩を許可された鯖江俘虜収容所の俘虜将校16名が福井市内で買い物をし、坪吉楼で昼食を済ませた後、足羽山へ登り、藤島神社に詣でて鯖江に帰った。購入したのは帽子・こうもり傘・ハンカチ・美人絵葉書・指輪・食パンなどである。
(『北日本』1905年(明治38)6月4日付)

福井県内の狂犬病流行を追跡

福井県報告示第46号福井県報

唐仁原景昭氏(獣医師)
福井県が県民や他県に向けて公表する情報として県報は 第一級の公式資料として位置づけられています。
これにより100年前の事柄を正確に把握することが 可能となり、未来の人々にその当時の出来事を伝えることが可能となります。
福井県内の狂犬病流行を追跡 パネル展示
この展示資料は、唐仁原景昭氏が作成した資料から抜粋しています。
詳しくは閲覧室内の資料をご覧ください。

栄えある歴史を港名に 三国町長の奮闘

「福井港開港」 歴史的公文書306、『福井港』行政刊行物50002048
「福井港開港」 歴史的公文書306
五百旗頭薫氏(東京大学社会科学研究所)
一つの港の名前を決めるプロセスをとりまく、三国、敦賀、東京という地理的空間。内閣、県庁、三国町、海上保安庁という権力的空間。港湾法、港則法といった法的空間。こうした空間が、その中を奔走する一人の人間の息づかいと共に、身近なものに感じられてくる。
「福井港開港」歴史的公文書306 起案(上)「三国港の港名の改称および港域の改正について」(下)「福井港にかかる港則法の改正について」
歴史的公文書「福井港開港」306
1978年(昭和53)の福井港の一部開港をひかえ、港則法上の三国港の港名の改称にかかわる77年8月から10月にかけての公文書です。
これより6年前、県は「福井臨海工業地帯(テクノポート福井)」の造成のために港湾法上の港名を三国港から福井港へと変更し(県告示第196号)、1971年7月に重要港湾の指定を受けていました。
しかし三国では、奈良時代からの歴史をもつ「三国港」の名称の存続を強く要望していました。県庁では、三国町の希望を受けて、「福井三国港」への改称、それが難しければ、港則法上の名前と港湾法上の名前を分けるといった工夫を模索します。この間、三国町長は福井市、敦賀市、東京の間を奔走しました。敦賀市には、港則法を所管する海上保安庁の出先である敦賀海上保管部(第八管区海上保安部)があり、そして御存じのように東京には海上保安庁や法務省、運輸省(港湾法所管)があったためです。
しかし運輸省から、港湾法上の名称と港則法上の名称は同一であるべきとの見解が示されるなど、苦労が続きました。
県では最終的に、港名は福井港とするが、早期に福井地区・三国地区の分区を設けるよう特段の配慮を求める要望書を提出しました(10月4日施行)。この起案文書の後ろにこの間の経過が綴られています。どのような仕組みで港の名前が決まるのか、そこに地元の声がどのように反映されるのかが、追体験できます。

ポスター

福井県文書館

〒918-8113
福井県福井市下馬町51-11
TEL.0776-33-8890
FAX.0776-33-8891
Mail.bunshokan(at)pref.fukui.lg.jp

開館時間

開館時間  9:00~17:00
休館日   月曜日(祝日の場合は翌日)
      第4木曜日