12 大敷網と沖漁(1)
 戦国時代から江戸時代にかけて全国各地に大小さまざまな城下町が成立します。この城下町の成立と発展とは、その地で消費される食料用の魚の需要を生み、それを背景に漁業が大きく発展します。
 越前・若狭、なかでも若狭の漁業は、江戸時代前期には、日本海沿岸地域で最も先進的なものでした。その中心は、地先漁場での大敷網に代表される網漁と沖合の漁場での沖漁でした。網漁には、さまざまなものがありましたが、若狭湾では早く鎌倉時代の末には大型の網がみられ、室町時代には大敷網の原型となるものが使用されていました。1602年(慶長7)、若狭49か浦のうち21か浦には、大型の網である「大網」が少なくとも43側あったことが知られています。沖漁には、2つの形態があり、シイラなどを釣る釣漁とカレイなどをとる網漁がありました。
 18世紀に入ると、日本海側でも漁業が一般化し、またそれより少し遅れて蝦夷地でのニシン漁がさかんとなり、越前・若狭の漁業の先進性はじょじょに薄れていきますが、当地方でも、それまでの大敷網の規模が大型化し、また網の形態も変化をみせるようになります。また沖漁も、江戸時代の初めには、敦賀の両浜のみが網漁を行っていたのに対し、越前の甲楽城・糠・高佐・厨・玉川・左右・居倉・蒲生、若狭の早瀬・常神・田烏・小松原など諸浦でも沖での網漁を始めるようになりました。さらに、若狭ではかがり火によるサバの釣漁がさかんとなり、漁場も丹後沖から能登沖にまで広がりました。水揚げされた多くのサバは、京都に送られました。このほか18世紀の中ごろには北丹波の村むらでも塩物や乾物だけでなく生魚も食べるようになり、その地域の村むらにも運ばれました。
 こうした新規の漁業や新たな漁法は、しばしば争論を引きおこしました。地先漁場での争論には、江戸時代の初めにしばしばみられた漁場の境をめぐるもの、定置網と引き網とのもの、新しい網の採用をめぐるものなどがあり、沖漁での争論には、釣漁である延縄漁と手繰網による引き網漁との同一漁場におけるもの、同一漁法による新規参入などをめぐるものなどがありました。利権を侵されたとする浦は、藩に訴えますが、多くの場合、藩は新たな動きを「新儀」として禁止し、旧来の秩序が守られました。漁業における「新儀」の禁止は、漁法の進歩に阻止的に働きましたが、それでも、徐々に新しい漁法も採用されるようになっていきます。
大敷網の模型
▲大敷網の模型       高浜町漁業協同組合蔵
 早瀬浦鎌ケ崎大網図
 ▲早瀬浦鎌ケ崎大網図
 三方郡早瀬浦が1684年(貞享1)に常神半島の鎌ケ
 崎に敷設した大敷網の図であり、網の大きさと網目と
 を示したもので、網の奥に行くほど網目は細かくなっ
 ていることが分かる。   美浜町 上野山九十九氏蔵
    早瀬・日向浦網場絵図(1)
▲早瀬・日向浦両網場絵図
1650年(慶安3)の三方郡日向浦と早瀬浦との網場争論にさいして作成されたもので、常
神半島の東側にあった両浦の網の位置と持分の境が明示されている。なお、この図の
右から4つ目の網が上の図の鎌ケ崎大網である。      美浜町 上野山九十九氏蔵

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