11 山村の生活(1)
 大野郡のなかでも山深い朝日村の太閤検地帳には村高として、米といっしょに大豆や稗までくわしく書きあげられています。米が多くとれない山奥の村では、大豆や稗まで年貢として納めなければならなかったのです。
 山村は数軒ほどの小さな村が多く、人びとは畑を切り開いて稗、蕎麦、豆、大根などの雑穀や野菜をつくり、また材木、木炭、薪の生産などで生計をたてていました。養蚕、漆、臘、紙などに力を入れている所もありました。
 畑は斜面を切り開き、雑木や草を焼いて、その灰を肥料とする焼畑耕作がふつうです。1617年(元和3)、南条郡大桐村の百姓は、わたしたち「やまか」の百姓は粟や稗を食物にするために山畑に火をつける、それは大桐村が始まってから変わらぬことだ、といっています。火をつけるのは春か夏で、1度焼くと3〜5年間くらい、作物をかえて栽培し、また別のところへ移りました。なお、白山麓牛首村周辺では、「むつし」といって焼畑地を売買したり、質に入れたりする習慣があり、それは大野郡や今立・南条郡の山村にも広がっていました。 
養蚕のまぶし
 ▲養蚕のまぶし
 蚕が繭を作りやすいように木の小枝で作ったものである。
 後には藁や細い縄で波状に作るのがふつうになった。
                石川県立白山ろく民俗資料館蔵
 ところで、だれでも自由に山を利用できたわけではありません。まず、領主の統制がありました。福井藩は早く1653年(承応2)に「山方法度」を定めました。家を建てるときでも材木の伐採には山奉行の許可が必要だし、持ち主がだれであろうと林を焼畑にしてはならない、村の入会山「さんぱく」の利用にも制限を加える、としています。また、山村には広い山林を独占する山地主がいることが多く、彼らの許可を得、入山料を払わないと山へ入れないことが多かったのです。
 山深いところでは、木地師といって、椀や盆などの木製品を作ることを仕事にしている人たちがいました。かれらは材料を求めて山を渡り歩き、定住することはありませんでした。しかし、しだいに家をかまえ、新しく村をつくる所も出てきました。南条郡大河内村はこのようにしてできた村で、1674年(延宝2)に福井藩が村と認めました。今立郡大本村の新田村である籠掛・稗田・西青・東青・蒲沢なども同様の言い伝えをもっています。
山むつし売券
▲山むつし売券
1667年(寛文7)大野郡河合村の弥右衛門が困窮し、銀76匁で「山むつし」を売り
払った証文である。同村では江戸時代の初めから「むつし」を売買していたことが
確認できる。                         勝山市 斎藤甚右衛門氏蔵
     焼畑の造成
     ▲焼畑の造成
     山深い村では戦後までこのような風景
     がみられた。写真は1855年(昭和30)こ
     ろ、大野市打波で行われていたもので
     ある。     大野市 河原哲郎氏提供

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