8 領主と農民(1)
 江戸時代、幕府は全国の土地のうち約400万石を直接支配し、残りを大名・旗本たちに分け与えました。大名や旗本もまたその一部を給人(家臣)に与えました。このようにして土地を支配する権力をもった人たちを領主といいます。

 領主は、土地とそこに生活する農民たちを支配し、米などの収穫物を取り上げるためのシステムを作り上げました。家臣団による強力な軍事力をバックに、支配権力を「公儀」と名付けて正当化し、法度(法律)を制定してこれをすみずみまでいきわたらせようとしました。幕府の場合、勘定奉行のもとに郡代や代官を全国に配置しました。越前の幕府領は、飛騨高山郡代の下に置かれた本保(武生市)代官が担当しています。越前・若狭の各藩では、郡奉行が村方を受け持ち、配下の代官が下代を指揮して年貢の取立てなどを行っています。

 支配は村単位に、検地によって決められた村高(生産高)にもとづいて行われました。農民は耕作権を認められるかわりに、その土地にしばられ、重い年貢を納入しなければなりません。毎年秋になると代官から村の年貢額を決めた免状が庄屋に渡されます。庄屋はこれを百姓ごとに持高に応じて割り当てました。年貢の中心は本途物成とよばれ、収穫の半分近くになるのがふつうで、8割、9割になることもありました。もっとも、越前では太閤検地で石高を高くしたため、免状に書かれた年貢率はそれほど高くなかったようです。年貢の決め方はその年の作柄を確認して決める検見法と、数年間の収穫を平均して定める定免法があり、ほとんどの領主は年貢の増加をはかるため両方とも試みました。
 
  結城秀康
  ▲結城秀康
  結城秀康は徳川家康の次男で、
  初代福井藩主である。1600年(慶
  長5)関ケ原の戦いのあと、越前68
  万石を拝領し、翌年入国、福井藩
  の基礎を固めた。07年32歳で病死
  した。
           武生市 龍泉寺蔵

高札場  高札場
 幕府の主要な法令は交通の要地
 に高札にして掲げられた。写真は
 幕末維新期、北陸街道の福井城
 下九十九橋北詰の高札場である。
       福井市春嶽公記念文庫
    福井市立郷土歴史博物館蔵
 本途物成のほかに小物成といって、畑や山野・河海などからの収穫にかかるもの、村高を基準とする高掛物、いろいろな名目の夫役(人足役)などがあり、農民の負担はたいへんなものでした。年内に全部納めるのが規則でしたが、たいていは翌年の6月ごろまでかかりました。

 領主は農民の支配にいろいろな工夫をこらしました。士・農・工・商という身分制度をつくって、農民を武士につぐ身分としたのはそのひとつです。幕府の法令に「年貢さへすまし候らへば、百姓ほど心やすきものはなし」(「慶安のお触書」)というのがありますが、これも年貢の取立てがむずかしかったからでしょう。このため庄屋を中心とする村役人に重い責任をおわせ、また宗門改や五人組制度によって、きびしく農民を統制しました。

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