7 藩の家臣団(1)
 江戸時代、大名の家臣には、領地を与えられた知行取、1日米5合を1人扶持として5人扶持とか3人扶持とかを与えられた扶持米取、1年に米3俵など定額を受け取った切米取があり、士分は知行取と一部の扶持米取、足軽・中間は扶持米取と切米取でした。小浜藩(12万3500石)の家臣団についてみると、1658年(万治1)には知行取の人数は244人、扶持米取は267人、足軽は832人、中間は556人いました。

 大名家臣団の中核をなす知行取は、実際に領地をもらうものと、領地ではなく知行の高だけをもらい年貢米は高に対して一定の割合(多くは知行高の4割)で藩の蔵から受け取るものとがいました。

 福井藩は前者、小浜藩・大野藩・勝山藩・丸岡藩・鯖江藩など多くの藩では後者でした。家臣の人数は、藩の石高が大きいものほど多く、また家臣の知行高も大きい藩ほど高禄のものが多くみられます。50万石時代の福井藩の知行取は534人と小浜藩の2倍以上でしたし、2万2777石の勝山藩ではわずかに33人でした。

 越前・若狭にはその地に生え抜きの大名はいませんでしたので、その家臣も大名とともに移住してきた人たちです。

 福井藩についてみると、初代の結城秀康の時代の家臣の出身地は、501人中、徳川氏の出身地三河の78人がもっとも多く、ついで下野65人、遠江50人、美濃37人、尾張30人、武蔵27人と東海・関東の国ぐにの出身者が多くみられますが、越前の出身者も19人をかぞえます。そのほかの藩についても、その広がりには差があるものの、ほぼ同様の傾向がみられます。

 各藩の組織は、軍事を担当する番方と司法・行政にあたる役方に大きく分けられました。

 福井藩についてみると、番方には、大番組・旗奉行・物頭番頭・先物頭・徒頭・纏奉行・長柄奉行・玉薬奉行などがありました。役方には、最高責任者である家老、その次席の用人、城下町と寺社支配にあたった寺社町奉行、財政を預った奉行(勘定奉行)、所々の修復や維持にあたった普請奉行・作事奉行、在方を支配した郡奉行、年貢収納などにあたった代官、また主君の側近くに仕える書院番頭・奏者番・側役・使番・右筆などの職がありました。家臣は、その知行高や家格に従ってこれらの職に就きましたが、その職は全く固定したものではなく、一定の限界をもちながらも、より重要な職に昇進していきました。


福井藩・小浜藩家臣の国別出身地  福井藩・小浜藩家臣の国別出身地
 福井藩はおもに東国中心、小浜藩は全国的広がりを
 みせているが、両藩ともに、三河・尾張を中心に東海
 とその周辺の国ぐにの出身者が多い。これは、藩主
 家が一門・譜代の家であることによる。本図は、福井
 藩については結城秀康給帳、小浜藩については1774
 年(安永3)の小浜藩由緒書により作成した。
 拡大図 94KB

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