6 城下町と町人(1) | |
城下町は領内の政治の中心として武士が集住していただけでなく、経済の中心でもあったので、町人も多く住んでいました。 城下町の行政は、領主側の町奉行や与力などと、町人の中から藩が任命した町役人が担当していました。町役人には、町全体を統括する町年寄や町代と城下内の各町に置かれた町庄屋がいました。福井のような大きな城下の場合はその中間に、いくつかの町をたばねる町組頭が置かれていました。 城下町に住む町人には、土地・家屋とも所持する家持(本家)、借地に家屋だけを建てて住む地借(地名子)、借家に住み土地も家屋も持たない店借(借屋)の3つの階層がありました。これらの呼称は町によって異なります。 福井や府中では家持の割合が高く7割をこえていましたが、大野では店借が40%を占め本家は57%、地借は3%、勝山では地借が約50%で家持は20%もないくらいでした。その割合は城下町のなかでも場所によって異なっていました。1837年(天保8)の勝山の場合をみると、地借の割合は裏町的であった後町が60%であったのに対して町の中心であった袋田町は42%でした。逆に家持は後町が11%、袋田町が19%でした。店借は袋田町で39%、後町で29%でした。町の中心に家持(高持)が多かったことがわかります。 |
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▲「小浜町絵図」 1757年(宝暦7)の絵図を1864年(元治1)に筆写 したものであるが、その間の新しい情報も一部加 えられている。当時の町は道路を挟んだ両側で構 成されていた。本図では道路の中を色分けするこ とで、道路に面した家がどの町に属しているかが 示されている。南方の後瀬山麓には寺が集められ 寺町が形成されている。江戸時代以前からの町 が多い西部には「石屋小路」などの町名が目立 つ。 京都大学文学部蔵 |
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▲町役人の組織 多くの城下町では大野城下のような組織であり、町年寄は通常2人で 月番交代で勤めた。町庄屋は町の数だけ置かれた城下町が一般的で ある。町庄屋の補佐をするのが組頭である。五人組頭の下に五人組に 編成された一般の町人がいた。福井の場合は城下の規模が大きいた め、城下を11の町組に編成し、それぞれに町組頭を置いた。町組に属 した町数は8か町から45か町におよぶ。また、福井の町人は五人組で はなく十人組に編成されていた。 |
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▲城下町の町人人口 |