6 城下町と町人(2)
 このように、城下町のなかでも中心街とそうでない町とでは異なる様相がみられます。1612年(慶長17)ころの北庄(福井)での町ごとの屋敷地の面積をみると、長者町・本町東組・呉服町・一乗町・京町などの中心街は50坪をこえていますが、妙国寺町・西魚町・八幡町など城下周辺部や小商人が住んでいたと思われる町では20坪に満ちません。このような傾向は大野町でもうかがうことができます。

 また、町人の年貢負担も町の位置によって異なっていました。大野では美濃街道が通る中心街の年貢負担は、周辺部の場所の2倍でした。府中ではその差がさらに大きく、北陸道に沿った本町・大黒町・室町の3つの町の年貢負担は、久保町・馬面町・新在家町など周辺の町の5倍以上でした。中心街のにぎわいに応じて賦課されていたことがうかがえます。

 このように、中心街がにぎわっていたようすは城下の町並みからもうかがうことができます。勝山城下の図には、袋田町に瓦葺きと思われる家が多く、後町には草葺きの家が多く描かれています。また、鯖江の図からは陣屋付近に店の構えをした家が多く描かれています。
   「勝山城下絵図」
   ▲「勝山城下絵図」
   1691年(元禄4)小笠原氏が入った直
   後のものと思われる絵図である。東側
   の城や侍町の部分は平面図的に描か
   れ、西側の町人町は景観図的に描か
   れている。その間にある郭の役割を果
   たした七里壁といわれる段丘崖も描か
   れている。町は2本の道路に沿ってお
   り、東側の道路がメインストリートであ
   り、北から袋田町・郡町があり、西側の
   道路に沿って後町があった。描写され
   た家の数はほぼ正確であり、描かれた
   家の景観も当時の実景ではないかと
   思われる。
          勝山市立成器西小学校蔵
「鯖江城下絵図」  鯖江城下絵図  拡大画像 265KB
 1773年(安永2)年に描かれた絵図である。20年(享保5)に間部氏が入り初めて城下町となったため、大規模な
 堀や土居は築かれておらず、町の中心を通る北陸道の南北の出入口に食違土居が設けられているのみであ
 る。道路の東側は侍町、西側には藩主居館や諸施設と並んで誠照寺・西福寺などの寺院があった。町は北陸
 道に沿って形成されたが、付近に府中町があったため、5万石の城下にしては家数は少なかった。本図に描か
 れている124軒の家は当時の景観そのままであると思われる。               鯖江市 田代清痴氏蔵

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