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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      福井県の誕生と石黒県令
 元老院での可決をうけて、政府は明治十四年(一八八一)二月七日、太政官第三号で福井県の新設と県庁を足羽郡福井に置くことを布告した。この福井置県は、県域としては六年一月成立の敦賀県の再現であり、福井に県庁が置かれるのは足羽県時代以来八年ぶりであった。ここに、廃藩置県以降めまぐるしい変遷をとげた県域の分合に終止符が打たれた。
 また、同日政府は県令に内務省少書記官の石黒務を、少書記官に地租改正局八等出仕兼大蔵一等属の多賀義行を任命した。石黒は旧福井藩主松平慶永(春嶽)への挨拶をすませ、三月二日には福井に着任した。県令の着任を終えた福井県は、同月六日に石川県より、同十二日には滋賀県より「土地人民」の引継ぎを行うとともに、同七日には福井佐佳枝上町の初等師範学校を仮庁舎として開庁し、以後八年余にわたる石黒県政が開始された(「福井県史料」二)。
 石黒務は、旧彦根藩士で維新以後、浜松県権参事、静岡県参事・大書記官などの官職を経て十三年には内務省少書記官となっており、地方行政に習熟した官僚であった。彼の経歴や多賀少書記官の前職をみるとき、後述する越前七郡地租改正事業の終結が大きな課題であったことをうかがわせる。 写真36 石黒 務

写真36 石黒 務

 この福井県が置かれた十四年前後は、日本近代史に一時期を画した明治十四年の政変が起こり、全国各地で自由民権運動が高揚する政治情勢の激動した時期であった。このため、地方政治の安定を求める政府は三新法体制による「地方自治」にいっそうの制限を加えた。「府県会規則」は、十二年から十七年にかけて七回改正されているが、とくに十三年十一月には常置委員会を設けてこれを「県令の顧問」化し、さらに十四年二月と翌十五年十二月の改正では議会に対する知事の権限を強化した。また、中央財政を地方に転嫁するため「地方税規則」も十七年までに九回も改正した。なかでも十三年十一月の改正により、府県土木費中の官費下渡金が十四年度から廃止され、また府県庁舎建築修繕費・府県監獄費・府県監獄建築修繕費が地方費負担となり、その財源確保のため地租付加税制限は、従来の地租五分の一から三分の一以内とされた。このような地方に苛酷な負担を強制する政策を遂行するため、この時期何人かの中央官庁の官僚が、「難治県」の県令となっている。また、一方では地方への譲歩策として分県が行われたのである(表29)。
 こうした地方統治をめぐる中央と地方の対抗関係のなかで福井県が設置され、石黒務が内務省から県令として赴任してきたのであり、その任期は地方政治の安定のために長くならざるをえなかった。また、官費下渡が廃止された県庁舎・監獄署の新築費用への国庫補助や、地価再修正および地租延納などを政府が認可するのも、こうした石黒県令への支援策の一つとしてもとらえられよう。



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