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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    三 小浜線の敷設
      小浜線の敷設
 明治四十五年(一九一二)三月、敦賀建設事務所を設置され、翌四月より、敦賀を起点に測量が開始され、七月からは用地買収にとりかかったが、買収がほぼ終了したのは大正七年四月のことである。路線は、敦賀・粟野・(佐田・山上・腰越隧道)・河原市・三方・十村・(天狗山隧道)・大鳥羽・三宅・新平野・小浜・(八幡山・勢坂・加斗坂隧道)・加斗・若狭本郷・若狭高浜・(吉坂隧道)・松尾寺・新舞鶴の各駅で、総延長は五二マイル三〇チェーンである。
写真172 小浜線南川鉄橋

写真172 小浜線南川鉄橋

 五年二月、山口嘉七ほか三人が、衆議院に「敦鶴鉄道促成ニ関スル建議案」を提出した。当初、八年度までに全線開通の予定が、行政整理で十三年度に延期となることに対応したもので、「東敦賀ニ旅団兵営アリ、西ハ舞鶴ニ鎮守府軍港ノアリマシテ、軍事上最モ急施ノ必要」を強く主張した(『雲城』一七)。
 敦賀・山東村間は、四年五月二十六日に起工され、五年十二月十五日に竣工、最終第七工区の高浜・新舞鶴駅間は十一年十一月二十七日に竣工した。全区間で約五年一〇か月の歳月と、七三一万九八四〇円三三銭九厘の工費を要していた。この間、五年末から六年の大雪や六・九両年秋の暴風雨などが、工事を遅らせたが、最大の原因は第一次世界大戦であった。急激なインフレで物資や労賃が高騰し、後半の工区では、追加予算で新たに執行されるという状態であった。ちなみに労賃は、四年の土方人夫一日六三銭が、九年には二円三〇銭となっており、その高騰ぶりがうかがえる。
写真173 高浜駅

写真173 高浜駅

 七年十一月十日、敦賀・小浜間がようやく開通した。すでに前年の十二月十五日には敦賀・十村間が開業していたが、小浜への鉄道開通は、構想からじつに四分の一世紀におよぶ若狭地方の悲願であった。一日五往復、所要時間は最短時間で片道二時間四分であった(『若州』大7・11・10)。十年四月三日には小浜・高浜間が開業し、ついで十一年十二月二十日には新舞鶴までの全線が開業となった。敦賀・小浜間、小浜・新舞鶴間にそれぞれ六往復の列車が運転され、そのうち二本は京都への直通列車で、京阪地方へは一日で往復できることになった。
 地元紙『若州』は、「全町熱狂の巷と化すべき十日の鉄道開通祝賀」と題した記事を載せている。小浜尋常小学校の校内体操場に設置された式典会場では、九時の一番列車で到着した来賓を自動車と人力車で迎え、十時より式典が挙行された。常高寺での晩餐会、駅前などには装飾電灯を施した緑門、数十発の煙花、小学校での旧家蔵の書画展、本境寺の能楽、旭座の歌舞、病院跡地での相撲、八幡神社での曲馬、小学生の旗行列、青年の提灯行列・仮装行列、さらに町内各区ごとの山車物など、町民をあげての行事が予定されていた。



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