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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    三 小浜線の敷設
      小浜線と若狭地方
 小浜線の開通は、第一次世界大戦後の不景気も重なって、期待されたほどの効果をもたらさなかった。そのなかで注目されるのが、夏季の避暑海水浴客の増加である。小浜町の調査では、大正十一年(一九二二)の七・八・九月の三か月間に小浜へ避暑を兼ね海水浴のため滞在した者は三五四三人、のべ三万二七〇人で、その八割は京都からの客であった。京阪神地方の避暑地として期待がかけられていた(『雲城』三七)。
 小浜線の敷設と並行して、京若・江若両鉄道の敷設計画が起こっていた。十一年四月改正の「鉄道敷設法」でも、京都府殿田付近から小浜にいたる路線と滋賀県浜大津から高城を経て福井県三宅村にいたる路線、高城から分岐して京都府二条にいたる路線が、予定鉄道線路としてあげられた。
 京都花園駅から丹波山地を縦断し、知坂峠を越えて名田庄村・小浜町にいたる京若鉄道は、京都・小浜間最短ルートである。十一年四月改正の「鉄道敷設法」では、一部分の殿田・小浜間が予定線となった。翌五月には京若鉄道期成同盟会総会が開かれ、名田庄村でも運動費を負担することになった(『雲城』三〇、『若州新聞』大11・5・28)。年末には政友会の近畿大会が開かれ、花園駅を起点とし京若予定線に接続する周山線の速成が決議された。十二年の通常議会には、三宅・二条間鉄道速成決議案、京北線速成決議案、花園・宮島間速成決議案など、湖西地方から丹波山地の山岳地帯を縦断して小浜町に達する鉄道速成建議案があいついで提出された(『雲城』三七)。
 湖西地方を北進左折して若狭と近江をつなぐ鉄道については、近若軽便鉄道が、大正四年に滋賀県坂本村・遠敷郡三宅村間の敷設免許状を得ていたが、七年に失効した(運輸省移管公文書)。つぎの江若鉄道は、大津市・三宅村間の鉄道で、八年八月に免許状を下付され、十年三月には大津・坂本間が開通した(『雲城』二九、三一)。十年の秋ごろ、今津より北行して疋田で官設の北陸線に接続させる路線変更論が起こり紛糾したが、結局この路線は退けられ、三宅・熊川間および坂本・和迩間の両端からの着工となった(『雲城』三三)。滋賀県側では順次工事が進み、昭和六年には今津までが開通した。



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