目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    一 府県分合と嶺南・嶺北
      滋賀県下の嶺南四郡
 明治九年(一八七六)八月の滋賀県への嶺南四郡の編入は、越前七郡を編入した石川県とは異なり、滋賀県政にこれといった混乱をもたらさなかった。近世以来、嶺南四郡は文化や経済において上方との深いつながりがあり、人びとも違和感をもたなかったからであろう。また、篭手田安定滋賀県令が、編入前の嶺南四郡で施行されていた敦賀県政との継続性にいくつかの点で配慮したことも大きかった。この点について少し述べてみよう。
 篭手田県令は、嶺南四郡を編入した際、地方末端行政区画に変更を加えなかった。滋賀県では郡を基本とした区制をしいていたが、敦賀県は大区小区制を採用し嶺南四郡は第一大区から第五大区に分かれていた。警察費などの民費も「旧敦賀県ノ旧慣ニ依リ賦課」(明治十年九月丙第一五五号)されており、この嶺南四郡の大区小区制は、十二年五月に郡が置かれるまで続けられた。このほか民費賦課などの諮問機関的役割を果たしていた地方民会も、近江は公選議員、嶺南四郡は旧敦賀県からの旧慣である官選議員により構成されていた(『朝野新聞』明10・2・21)。また、府県会規則による最初の滋賀県会が、十二年四月に大津南町の顕証寺で開かれているが、敦賀・塩津間や今津・小浜間の道路修築費や小浜初等師範学校設置費が原案どおり可決され、混乱もなく四〇日間で終わっている(『滋賀県議会史』一)。
 このように、敦賀県の旧慣を尊重し嶺南四郡の民情安定をはかっている一方では、地租改正においては五年後の見直しという条件を県令より提示され、十年四月には改正事業終結に導かれているなど、強圧的側面がなかったわけではないが、嶺南四郡が滋賀県を離れて福井県に入らねばならない積極的理由はなかったといえよう(岡本卯兵衛家文書)。




目次へ  前ページへ  次ページへ