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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    一 府県分合と嶺南・嶺北
      千阪石川県令の上申書
 三新法の一つである「郡区町村編制法」によって大区小区制が廃止され、郡や町村が行政区画として再び法的に認められた。これは近世以来の旧域が尊重されたことを意味し、地方議会の開設とあいまって、府県区画の修正問題にも波及し、全国各地で分県運動に火をつけることとなった。明治九年(一八七六)以後は府県分合を認めてこなかった政府もこの動きを無視することはできず、十三年三月には、高知県からの徳島県の分県を布達することとなるが、それがまた、各地の分県運動をさらに活発化させることになった(表29)。

表29 府県分合年表(明治13〜21年)

表29 府県分合年表(明治13〜21年)
 福井市街においても商人たちが中心となり「勉強会」(総代岩井喜右衛門)という組織を作り、十三年十一月、石川県からの越前七郡の分県を千阪県令に請願し、また同年十二月には旧藩主松平慶永(春嶽)にも政府への働きかけを依頼するなど、分県への動きが活発化していた(松平文庫)。
 このような状況のなか千阪石川県令は、十三年十二月に再度「管地区画改良」を政府へ建言した。建言のなかで彼は、風土民情の異なる「南越」(越前七郡)と旧加賀藩域の「加能越」の県会における対立事例を詳しく述べた後、「南越幸ニ地租再調ノ事竣ル、此機ニ投シ断然分割ノ措置ナカルヘカラス」と断じ、越前若狭両国からなる一県設置の必要性を強調している(資10 一―一三五)。
 この建言書提出をうけて、松方正義内務卿は「府県分合之儀」を三条実美太政大臣に上申し、福井県新置と堺県の大阪府への併合案が一月三十一日、元老院会議にかけられた。会議の冒頭、伊東巳代治少書記官は、「南越ノ民ト加能越中ノ民トハ、常ニ軋轢シテ氷炭相容レサルノ情況」であり、分県を行わないと、県政の運営が阻害されるばかりでなく、「異日或ハ動乱ノ基トナルモ亦知ルヘカラサルナリ」と議案提出理由を述べている。千阪や伊東は、地租改正反対運動や国会開設請願運動が自由民権運動の大きな潮流となり、反体制運動として先鋭化することをもっとも恐れていたといえよう。この会議では特別の反対もなく、議案は全会一致で可決された(『元老院会議筆記』一〇)。



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