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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    一 府県分合と嶺南・嶺北
      石川県政の混乱
 明治九年(一八七六)に、内務省は二度にわたり府県の統廃合を行い、八年末の三府五九県が三府三五県になった。加賀・能登を県域としていた石川県は、同年四月に新川県(越中)を、さらに八月には越前七郡を合併して、人口一八二万人、旧石高二二〇万石の日本最大の県となった。
 この九年の府県統廃合の目的は、まず第一に、地租軽減(地価の百分の三が二・五となった)による歳入不足を克服するための府県経費節減にあった。第二には、旧士族が県職員を独占している旧藩域依拠の県をなくし、中央政府の地方支配を確立するためであった。最大の眼目であった鹿児島県には手をつけることはできなかったが、佐賀・鶴ケ岡・鳥取・名東県を廃止し、また、その名東県を合併した高知県の県令に初めて他県出身者を任命したのも、そのような政府の意図からであった。
 ところが、もともと藩政以来の「陋習」が深く「浸染」し、「難治県」の一つとされていた石川県が、新川県とともに旧福井藩(親藩)の封地であった越前七郡を併合したことは、県政の運営をより困難にした(「公文別録」内務省一―一)。
 さらに、石川県政をいっそう矛盾に満ちたものにしたのが、十一年七月の三新法(「郡区町村編制法」・「府県会規則」・「地方税規則」)の制定であった。この最初の統一的地方制度では、住民の地方自治への部分的参加が認められ、地方議会は公選議員により構成された。このことは、地域の政治的経済的要求を提出できる場ができたことを意味し、とくに府県会は中央政府の政策の施行方法や予算案をめぐって知事・県令と鋭く対立することとなる。
 十二年五月の最初の石川県会において早くも、越前、加賀、能登、越中の地域的利害が噴出した。勧業、土木工事、学校、医学所などに対する予算案をめぐり対立し、その運営は著しく円滑さを欠くことになる。会期はコレラ病の流行とも重なり五か月にも及び、十三年度予算案はほとんどの費目において修正が加えられた。とくに、「県立学校費及小学校補助費」七万三五〇円の原案は、地域対立のなか小学師範学校費や医学所費が大幅に削減され、原案の半分以下である三万二七三円に修正された(『石川県議会史』一)。また、法理闘争にもとづく越前地租改正反対運動は、桐山純孝県令の更迭と越前七郡の地租再調査をもたらし、石川県政の大きな蹉跌となった。このような石川県政の混乱が、桐山の後任である千阪高雅県令(前内務省少書記官)をして二度にわたる分県の建言を政府へ提出せしめることとなる。
写真35 千阪高雅

写真35 千阪高雅




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