明治四年(一八七一)七月の廃藩置県以降、中央集権国家体制の樹立を目的とした諸政策の一つとして、地方統治機構形成のための府県分合がくり返し行われた。これは性急に中央集権化を進める明治政府の試行錯誤の過程であるが、また、一方ではそれに対する地方からの抵抗も起こった。なかでも十四年二月七日に現在の福井県が成立する福井県域の府県分合の過程は、全国的にみてもめまぐるしかった(第一章第二節一)。それはまた、北国街道(北陸道)筋の今庄から敦賀へ抜ける街道の難所であった木ノ芽峠(木嶺)を、県域と県庁所在地をめぐる地域対立の象徴的存在としてクローズアップさせ、「嶺南」・「嶺北」という新しい地域区分ができあがる契機ともなった。
四年十一月二十日に初めてまとまった行政区画を管轄する敦賀県(若狭三郡と越前敦賀・南条・今立郡)と福井県(越前足羽・吉田・坂井・大野・丹生郡)の二県が置かれた(福井県は一か月後に足羽県と改称)。この敦賀県の参事であった藤井勉三(旧山口藩士)が、翌五年十一月に敦賀開港とそのための県域拡大を求める建白書を提出した(資10 一―九七)。政府はこの建白書の県域拡大だけを認め、六年一月十四日には足羽県が敦賀県へ併合される。その背景には足羽県職員がすべて同県内出身者で占められ、とくに県庁が旧福井藩士の牙城の観を呈していたのを除去したいという政府の意図があったといわれている(宮武外骨『府藩県制史』)。事実、この合併が実現すると旧足羽県職員の多くは県庁を去ることになった。
しかし、六年一月の敦賀県の成立は、越前七郡と若狭三郡および敦賀郡との間に県庁の位置をめぐる対立を起こすことになる。足羽県の敦賀県への合併が布達されると、間髪を入れずに富田厚積前足羽県権大属から併合の非を訴える建白書が政府へ提出された。「県都」は、港湾都市としての将来性に疑問のある敦賀よりも、人口稠密でかつ文化的伝統の蓄積された「閑静」な都市(福井)に置かれるべきであるとする富田の建白は、当時横浜で発行されていた『日新真事誌』にも掲載され反響を呼んだ(「建白書」明治六年癸酉自三月至四月 三)。 |