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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    三 新聞の誕生
      『雪の夜話り』と『越陽絵入新聞』
 明治前期の新聞には二つの異なった種類があり、それを大新聞、小新聞と称した。大新聞とは主として政治経済記事を中心に政論本位のいわゆる硬派の新聞をいい、小新聞とは市井の男女を対象に社会面の記事に重点をおき、総ルビ付きの平易な通俗的文体で報道および読物を提供、多くは勧善懲悪主義の立場をとり、また時には露悪趣味を思わすような興味本位の記事もうかがわれるといった軟派の新聞をいった。
 福井においても明治十五年(一八八二)に短期間ではあるが二つの小新聞が刊行された。一つは、当時の新聞界での小新聞の流行に刺激され、第一次『福井新聞』の姉妹紙として、また同紙自体の社勢拡張の意図をも含めて、十五年五月十三日に第一号が、福井佐佳枝中町三五番地、福井新聞社内仮本局北地新聞社の名で発刊された『雪の夜話り』である。定価は一枚七厘であった。
 なお、社主は旧福井藩士で織工会社の役員であった長谷部弘連、主幹は山本鏘二であった。内容は雑報(おはなし)と読物が中心で、その紙面からは置県当時の生々とした市井の風俗が読みとれ、また庶民の息吹きを感じることができる。しかし後述の『越陽絵入新聞』の発刊によって小新聞の競争者が出現した。そしてこの難局には、八月二十日刊の第八三号より紙幅拡張と紙価の値上げ(定価一枚一銭)でいったんは対処することができた。しかし結局は、親新聞である第一次『福井新聞』をめぐる社会情勢の変化、とくに『北陸自由新聞』の発刊を契機にした新事態の展開のなかに『雪の夜話り』は十月二十日の第一三二号で廃刊、わずか半年たらずでその姿を消すことになった。
 『越陽絵入新聞』は、『雪の夜話り』の好評に刺激されて十五年八月二十五日に第一号が発刊された。社主は後年弁護士を開業し、また憲政党福井県支部の幹事となり明治四十年前後にかけて福井市会で活躍した吉村禎一であり、主幹として津田貞、校閲者として若菜貞爾が名を連ねた。津田、若菜は、すでに大阪の新聞界において大いに活躍し頭角をあらわしていた。とくに津田はその能文により一頭地を抜く存在であった。彼らと山本の三人は、関西の新聞界での仲間内であり競争相手でもあった。当時の彼らの年齢は、津田が三八歳、ついで山本が三〇歳、若菜が二八歳で、いわば津田がその道のベテラン、山本、若菜が油の乗り切った中堅格といったところであった。おそらくかつての大阪での対抗意識が、福井に持ち込まれたことであろう。
写真33 『越陽絵入新聞』の発行公告

写真33 『越陽絵入新聞』の発行公告

 現在『越陽絵入新聞』は、十五年九月二十七日刊の第二七号の一日分のみが発見されているが、、紙面の大部分を雑報欄が占めていた。前金一葉一銭六厘とあり、『雪の夜話り』の改訂後の定価と比べてもかなり高く、大新聞なみの定価であった。このように第二の小新聞の発刊をみたが、同紙主幹の津田が発刊後わずか一か月たらずの九月二十四日、福井病院で死去する。それは当時の福井の新聞界における大きな異変であり、彼の死と『雪の夜話り』との競合による経営不振によって第三八号で終わった(廃刊は十月十二日であったと推測される)。このように福井における小新聞の歴史はいずれも短期間で幕を閉じた。そして大新聞もまた『北陸自由新聞』が十六年四月に終わりを告げ、以後第一次『福井新聞』のみが種々の問題を抱えながら続刊していったのである。
 我われはすでに五年八月、足羽県権大属学校掛富田厚積(旧福井藩士)が足羽県新聞会社の名で月二回刊行の『撮要新聞』第一号を発刊し、翌六年に足羽県が敦賀県に吸収合併された直後の三月、第一一号で廃刊したことをみてきた。それは、廃藩置県後しばらくの間全国各地において上意下達、勧善懲悪、文明開化を進めるべく府県庁のお声掛りで一時多くの新聞が刊行されたものの一つであり、今日風の日刊新聞ではなかった。福井における日刊新聞は、置県の年にそして全国における自由民権運動の高揚のなかに初めて出現したのであり、しかも翌十五年には、大新聞小新聞合わせて四紙が県民にさまざまの情報を提供したのであった。日刊新聞の誕生はまさに政党の誕生といった県内の政治状況と並行したものであり、当時の言論の活況を物語るものであった。



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