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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    三 新聞の誕生
      『北陸自由新聞』と私草憲法
 『北陸自由新聞』が、明治十五年(一八八二)十二月十日南越自由党の機関紙として杉田により創刊され、翌十六年四月、八三号で廃刊に追い込まれた経緯については「政党の誕生」(第一章第三節二)でふれた。同紙は、社長杉田定一、幹事岡部広、主筆永田一二、仮編集長高桑与三吉、本局が福井市佐久良下町にあり、定価は一枚二銭五厘であった。また同紙は、従来十六年一月三十日(第三二号)の一日分のみが発見されており、その社説欄に私草憲法の一部が掲載されていることによって注目されていた。今回の県史編さんの過程で県内の諸家で十数日分の同紙が発見されたのであるが、今日までに見出された同紙の所在現況と、同紙社説欄の私草憲法案は表27のとおりである。

表27 『北陸自由新聞』の所在と掲載私草憲法案

表27 『北陸自由新聞』の所在と掲載私草憲法案
 さて、この私草憲法はいわゆる私擬憲法時代といわれた時期の所産の一つであった。第二回国会期成同盟において翌十四年十月予定の会合に各自憲法見込案を持ち寄ることが約束されたように、当時一般に国会開設の要請と平行して民間において数多くの憲法私案が作成されたが、それがもっとも盛んであったのは十四、五年であり、現在この時期の民間憲法私案の多くが発見されている。この私草案は同紙主筆永田一二の筆になるものであり、十四年七月から九月にかけて、彼が『山陽新報』に掲載した私草憲法の部分的修正の草案であった。北陸自由新聞案と山陽新報案を対比してみると、表28となり、両案の構成はほぼ同じであることがわかる。

表28 『北陸自由新開』『山陽新報』の私草憲法案

表28 『北陸自由新開』『山陽新報』の私草憲法案
 以上のようにその全貌は未だ明らかではないが、起草者永田自身が山陽新報案の掲載を終わるに際し、その補正を他日に期したごとく、北陸自由新聞案には編章ならびに条文の順序の入れ替え、条文の整合化、説明註釈の精緻化など若干の修正がなされていることを発見する。たとえば、第二章第六条の上院議員被選候補の欠格者から神官僧侶を省き、第七条の兼任禁止をすべての官吏に及ぼし、この条項の主旨を整合した点、第三章第九条の租税に関する議案起草について下院と内閣の共議に修正した点など、総じて条文の整合修正の跡がうかがわれ、またとくに第四章第二、三条の説明註釈を見るかぎり、政党内閣制への展望がかなり具体的に述べられている事がわかる。このほか第六章第一二条通信の自由の条文および説明註釈は人権規定の精緻化をうかがわせる。
 永田一二が起草した山陽新報案が、当時すでに発表されていた『共存同衆』の私擬憲法意見、交詢社の私擬憲法案、『郵便報知新聞』の私考憲法草案が参照され踏襲されたと同じく、北陸自由新聞案もまたそれら諸案の系統につながるものであった。すなわちそれは、のちの改進党系諸案の系列のものであった。とすればそのような案が杉田の率いた南越自由党の機関紙に掲載された経緯は、そもそも何であったのであろうか。
 永田一二(嘉永三年生まれ)は豊前中津藩の出身、明治初年慶応義塾に学び、義塾および高知の立志学舎でしばらく教員生活を経た後、十三年三月愛国社の『愛国志林』創刊に際し同社に入社、以後『愛国志林』『愛国新誌』の編集に携わった。彼は両誌に一六回にわたって「国会論」を掲載、また国会開設上願書の起草委員として活躍、おそらくその審査委員として杉田との交遊も重ねられたことであろう。十四年一月『山陽新報』主筆、十五年二月『日本立憲政党新聞』創刊と同時に記者となり、立憲政党の遊説委員をも兼ねた。そして十五年十一月『北陸自由新聞』の主筆として招請され、同社記者岡田茂馬とともに来福したのである。彼の『北陸自由新聞』における地位は同紙の政論の中心的な担当者であり、また、南越自由党においても政談演説会等で杉田につぐ地位にあった。彼の論旨は南越自由党の主張の一端を担っていたと考えてもよく、『北陸自由新聞』の社説欄に私草憲法を連載したことは永田の一私見であったとは考えられず、南越自由党の党議であったということができよう。
 前述したように、かねて杉田は南越自由党の結成、『北陸自由新聞』の発刊を契機に、北陸における政治勢力の結集を企図していた。北陸七州の政治勢力の結集をはかるならば、そこには広い範囲に適応すべく、それぞれの民権勢力が抱く最大公約数的な政治姿勢が求められよう。こうしたことのなかに現在なおその全貌をみることができないとしても、『北陸自由新聞』がその社説欄の多くをあてることにした私草憲法が、それまでの民間の憲法構想の大勢を制していたと考えられる自由党右派ないしは改進党系の憲法構想の内容をなした議院内閣制を中核とするイギリス立憲政治を模範とした国約憲法構想であったことは、ある意味においては当然であり、それは北陸七州における憲法構想を意図したものであったとも考えられよう。
 さらにまた、私草憲法の掲載時期が、いわゆる私擬憲法時代といわれる十四、五年の時期より若干後であったことにも留意しなければならない。それはすでに国会開設の詔勅発布により、以後の民間における憲法論議に対し弾圧を表明した政府の攻撃的姿勢によって、やむなく民間の国約憲法制定の運動にブレーキをかけられた時期、あえて党機関紙に私草憲法を掲載したことのなかには、予想される明治政府の欽定憲法制定構想に対する抵抗の試みが蔵されており、また北陸全州の合同による結集力をもって、なおも執拗にイギリス型議会政を内容とする国約憲法構想を追求せんとする政治姿勢がうかがわれたのである。それはこの時期での明治政府に対する強力な対抗要件の一つであったのであり、このことはその後の歴史が証明するところであった。



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