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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    三 新聞の誕生
      第一次『福井新聞』の誕生
 自由民権運動による政治熱の高揚のなか全国各地に新聞の創刊を見、明治十四、五年にかけてもっとも多くの新聞が刊行された。福井においても明治十四年(一八八一)の夏ごろに新聞発刊の計画があった。十四年八月五日の『大坂日報』には、事実について若干の混乱もあるがつぎのような記事がある。南越の杉田定一氏が主唱者となりて、越前福井に南越新報と云ふを発兌せんとする企てありしハ兼て聞く所なりしが、氏ハ過日より屡々記載せし経世新論の著書に付禁獄六ケ月の刑を受くる事ありて、為めに其事を果たさざりしが今度いよいよ武生の内田某(鴎盟社員)が担当人となりて、福井新聞といふを近々発兌せらるゝとぞ、尤も其発起連中には千本久信、毛受洪、本多鼎介氏等にして、何れも官権者流を以て同地に名を知られたる人々なりとぞ、就中本多鼎介氏の如きハ彼杉田定一氏と全く反対論者にして恰も犬と猿の如き情由あり、早く謂ハバ明治日報の片われとでもいふ可き歟
 また武生市の「岩堀恒太郎家文書」のなかに南越新報発刊計画を思わせる一枚のメモ「方法、福井置県、越前南条郡武生町南越新聞社、郡役所の廃止」が残されている。これらのことからすでにこの時期に杉田の意を汲んで武生の内田兄弟を中心に鴎盟・友愛両社による新聞発刊の企てが試みられたことが推測される。しかし実際には『大坂日報』が報じたように、置県を記念して福井の旧藩士たちにより新聞発刊が企図され、その実現に向けて歩を進めていた。なお、彼らが国会開設請願運動において、杉田を中心とする動向に背を向けていたことについては前述したが、新聞発刊に関しても、杉田を中心とする民権勢力ならびに県議会内の民権派と、福井の旧藩士たちや県議会内の反杉田勢力との間の対抗関係がうかがわれた。
 『福井新聞』の発刊は、福井置県を契機に旧藩士たちの殖産興業の一策として計画された一面とともに、彼らの新しい事態に対する政治的立場の拠点づくりといった意図も蔵されていたと考えられよう。また、新聞発刊にかかわった者のなかには、十三年一月発会した交詢社に加盟し、あるいはその主張に共鳴する者がいた。おそらく彼らは、十四年の政変後における交詢社の動向に注目し、それに対応しようとしていたのであろう。たとえばその証左として、十四年十月の交詢社員北陸巡行の際、二十七日には福井風月楼において歓迎懇親会が開かれ、五四人が参加した。その内訳は狛元(第九十二国立銀行)、伊藤真(県会議員)、毛受洪(竟成社)、山本鏘二(福井新聞)、石黒務(県令)、徳山繁樹(郡長)、秦勤有(勝山の医師)、三好八五郎、平瀬作五郎、益田正助、甲野一蔵、大岩貫一郎(教員)の社員一二人、社外人として県官一四人、郡書記七人、教員医師六人のほか第九十二国立銀行の本多範、岡部長、松平鴎客、竟成社の島田重民、中島牛介、佐野影規、交同社の田川乙作、笹倉練平、東郷竜雄、織工会社の長谷部弘連、製糸会社の横山岩吉、県会議員の林藤五郎、本多鼎介、安田十兵衛(勝山)そして士族山田卓介の四二人であった。それはいわば官民合同の集会であったとともに、山本鏘二を含め新聞の発起連中が多く名を連ねていた。
写真32 『福井新聞』の発行届

写真32 『福井新聞』の発行届

 第一次『福井新聞』は、国会開設の詔勅が出された四日後の十四年十月十六日に、福井における最初の日刊新聞としてその第一号が発刊された(十二月までは隔日刊)。本社福井佐佳枝中町、社主伊藤真、主幹山本鏘二、仮編集長杉山義三郎、印刷長木村豊吉(交同社)で、四頁立て定価一部一銭八厘であった。すなわち、かねて杉田を中心とした民権運動に微妙な対抗意識を抱き、交詢社に親近感をもつにいたった福井の旧藩士の重立った者たち(国立銀行や士族授産会社などの幹部でもあった)により、大坂新報記者山本鏘二を迎え、同紙に近い立場をとる新聞として出現した。
 山本鏘二は、嘉永五年(一八五二)一月十九日福井藩の儒学者山本居敬(木斉)の次男に生まれた。藩校における漢学修業後明治五年三月慶応義塾に入社、洋学を修め、さらに翌六年横浜の高島学校に転じ、洋学修業を続けた。
 九年二月『大坂日報』が創刊されると、彼は記者として聘せられた。同年七月には編集長となり、九年の萩の乱、ついで十年の西南戦争に際して『同日報』の名声を挙げるのに功があった。十年十一月成法誹譏の罪で禁獄一か月、後同年十二月出獄後社長平野万里が同紙を去り、鴻池家の後援をえて新しく『大坂新報』を創刊(十年十二月十八日)するに際し、これに従った。十二年十月『同新報』に連載した「条約改正論」を出版、以後続出する同種論文の先駆をなした。十二年五月、平野は『大坂新報』を大坂商法会議所会頭五代友厚に譲った。そして番頭の本荘一行が社長、福沢諭吉のあっせんで『郵便報知新聞』の加藤政之助が編集主幹となり、山本もまた新陣容の新報にとどまって健筆を続けた。しかし、十四年夏の開拓使官有物払い下げ事件をめぐり、『同新報』を自己弁護の道具にしようとした五代とその要求を拒否した加藤との間に衝突が生じ、加藤は帰京した。しかし、福沢のあっせんで再び同紙は鴻池の手に戻り、加藤も主筆として復帰、払い下げ問題に対して自由に論陣を展開することになった。なお、のちに前島密が総監督に箕浦勝人が協力援助者に送り込まれ、また十四年の政変により退官した矢野文雄もまた大阪に赴き『大坂新報』の経営を援助することになる。
 かくて同紙の陣容は郵便報知新聞系で占められ、同紙の分身となり、十五年立憲改進党結成後はその機関紙となった。山本も有力記者としてその活躍が期待されていたはずであるが、同紙の再度の陣容編成と福井における旧藩士たちによる新聞発刊の時が符合したのを契機に、山本は責任者として『福井新聞』に迎えられた。また新報記者であった杉山義三郎も来福した。なお、山本は二十二年十月『福井新報』の廃刊後福井を去り、新潟県高田における政友会(改進党系)の機関紙『高田新聞』の主筆に聘せられ高田に移った。そして数か年高田での記者生活を続けた後、三十一年五月高田を去り東京に出、大いに雄飛せんと期したが、病魔に冒されて翌年一月四八歳で死去した。
 第一次『福井新聞』は、発刊以来国会開設を目途に県民の政治的成熟を期待して刊行を続けた。そして前述したように十五年三月立憲改進党の結成後、同年十一月に『北陸自由新聞』の発刊が明らかになると、福井における改進党機関紙としての立場を鮮明にし、杉田を中核とした自由党勢力に対抗し、改進党勢力扶植の努力を続けるにいたった。また同紙はこの時期に、『大坂新報』の加藤政之助、箕浦勝人を客員として迎えたのである。
 発刊当時の第一次『福井新聞』の発行部数を、十四年の『県統計書』で見ると、市内三万八五一〇枚、県内八〇四五枚、県外七七八五枚、計五万四三四〇枚、金員七〇六円四二銭とある。売上高を発行部数で割ると一銭三厘となり三か月前金六五銭ということであるから、一日の発行部数は、ほぼ一〇〇〇部前後と推定できる。



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