目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    二 政党の誕生
      南越自由党の終幕
 南越自由党と『北陸自由新聞』は明治十五年(一八八二)十二月、同時に誕生した。一般に当時の政党活動は新聞の刊行、演説会親睦会等の実施を主としたのであるが、とくに新聞はもっとも重要視された。杉田にとっても新聞の刊行は党活動のための主たる手段であった。また彼はこの新しいスタートを契機に、北陸における民党勢力の結集団結を企図していた。そのことは新聞名に北陸を冠したことにも、北陸七州(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)有志大懇親会の計画が、刊行早々の同紙面に発表されていることのなかにもうかがわれた。しかし党と新聞の前途は決して順調な歩みではなかったのである。
 北陸自由新聞社の出資金は予定の三分の一にも満たなかった。そのため資金と党員との募集が平行して精力的に進められたにもかかわらず、早くも発刊一か月で営業的危機を迎える。十六年一月九日の発起人緊急集会では、資金不足は諸役員協議のうえ、借入金で賄うこと、場合によっては印刷器械の抵当もやむをえないこと、未出資金の最終納入期日を三月三日にすることなどが決議された。株金の募集が予想どおりに進まず、資金難は徐々に深刻の度を加えつつあり、新聞の続刊に重大な障害をきたしつつあった。さらに二月一日より二十一日までの三週間発行停止処分という窮状が加わった。発行停止は政府の民党系新聞に対する弾圧常套手段の一つであり、新聞社への最大の攻撃でもあった。
 南越自由党の党員募集も思うように進まなかった。この時期のものと思われる「南越自由党事務覚」(杉田定一家文書)には、一、北陸連合会より十日以前の三月初旬総会を開くこと、一、巡回演説を各郡で盛んに行い党員を募集すること、一、大聖寺、山中、山代ヘ演説員を派出すること、一、先年の南越懇親会一人五円の出金を、演説費用にあてること、一、福井市街において読書研究会を設けること、一、福井、勝山、丸岡等の士族を自由党に入れることなどとあり、党員募集に対してさまざまな対策が講じられてはいた。また、三月初旬の総会に関し「南越自由党例会見込案」(杉田定一家文書)には、一、四月十日の越中高岡での北陸連合会に一人の委員を派遣すること、一、十六年前半期の党費を収納すること、ただしまず来会党員より集金し地方党員は地方郡部委員よりまとめて送ること、一、地方郡部委員の職制を確立すること、一、党名を北陸自由党と改称し、いっそう主義を隣邦に拡充し党員募集を進めること、一、常議員七人を選挙すること、一、郡部において多数の脱党者届が出ているが、郡部委員はその原因を査察すること、一、四月東京での自由党大会に出席する委員を選定しておくことなどとあり、党組織の不備ならびに党財政の不如意を物語っており、三月一日開催の総会で種々の打開策を講じようとした。
写真29 「南越自由党事務覚」

写真29 「南越自由党事務覚」

 しかし、頼みとする総会への出席状況も思わしくなかった。「南越自由党例期会同出席欠席共通信者人名」(杉田定一家文書)を見ると、通信者九六人中出席通知者は四〇人にすぎなかった。また、出席通知者のうちには北陸自由新聞関係者一二人や日和見的な福井商人層の九人が含まれており、郡部有力者の出席は足羽・南条郡各二人、坂井郡三人、丹生郡七人、今立郡五人の一九人で、とくに地主層の欠席通知が目立った。
 ともあれ三月一日、総会が開かれた。『北陸自由新聞』の報道によれば、各郡よりの来会者六〇余人とあり、各議題議了後、新常議員には内田甚右衛門、内田謙太郎、安立又三郎、長谷川豊吉、松谷弥男、加藤与次兵衛、永田定右衛門の七人が選出された。また、同夜には政談演説会が泰平座で開かれ、翌二日には新聞の発起人総会がもたれた。しかしそこでも懸案の資金難を打開するための具体的有効な手段を打ち出せなかった。
 それにしても、三月一日の総会を契機に再度党勢拡充のための政談ないし学術演説会が、三月三日武生、四日鯖江、五日坂井港、十五、二十六日福井、二十九日足羽郡東郷町、四月二日丹生郡吉江町と続行される。そして弁士は、若干の出入りはあるが杉田をはじめ北陸自由新聞編集局員が総出でつとめたのである。
 かねて予告されていた北陸七州有志大懇親会が、三月十日に高岡の瑞竜寺で開催され四〇〇余人が参集し、福井からは杉田、長谷川豊吉のほか二人が参加した。それは十五年暮れの福島事件にみられるように、政府の峻烈な民党弾圧と経済界の不況とくに米価下落による民党勢力の沈滞化という状況のなか、名を懇親会にたくし集会条例の網の目をくぐって、各県各地の民党勢力の団結によるその挽回策と組織の再構築のために開かれたものであった。それは北陸地域における民党勢力の一大結集であり、されば当然に政府のこれに対する監視の目は光っていたのである。
写真30 瑞竜寺(富山県高岡市)

写真30 瑞竜寺(富山県高岡市)

 十、十一日の集会は盛会であった。協議の結果「北陸自由共同会」が結成され北陸連合の礎石が築かれ、また弾圧に対する救恤組織を作成、さらに『北陸自由共同新聞』の協同発刊が計画された。
 しかし、大懇親会終了直後の三月二十日に高田事件が勃発する。それは頚城自由党員の赤井景韶が所持していた天誅党旨意書と彼の供述を手がかりにして捏造された計画的な弾圧事件であった。高田事件は北陸の民権勢力に大きな衝撃をあたえたことは言うまでもない。なおまた、懇親会後の十六日、高岡で政談演説会が開かれ、同会で長谷川豊吉が演説中、現場臨監の川上親晴警部の職務に対し侮辱した罪で拘引される事件が起きた。裁判の結果、重禁錮二八日罰金四円九〇銭に処せられたのである。この事件は彼の周辺とくに武生の友愛・鴎盟両社の人びとに大きな打撃をあたえることになる。
 さらに四月十六日、従来の発行禁止・停止処分のうえに、検閲をより厳重にまた高額の発行保証金制を新設するといった新聞紙条例の改悪がなされた。それは地方の民党新聞に対する追討ち的な弾圧策であった。時を移さず『北陸自由新聞』は、再び四月二十四日より三週間の発行停止処分をうけた。また発行停止期間中の五月には永田一二、山本憲らが退社していった。そして、五月十五日の解停後さらに四五日間の休刊届を出し、翌十六日、『北陸自由共同新聞』発行の準備を言質にして、当分の間の新聞休刊の社告を出すことになった。そしてついに、四月二十二日と推定できる八三号を最後にして、以後『北陸自由新聞』は発行されなかった。かくて、発起人総会で財産整理を旧常議員に委託するという決議がなされ、それは六月十八日、北陸自由新聞社名で会計報告書とともに関係者に発送されたのである。
 株金の応募は予定の一万円の三分の一にも満たず、新聞の売上部数も一日二〇〇〇部の予定をはるかに下回り、新聞代価の総額から逆算してほぼ五〇〇部前後にとどまった(写真31)。また社告に述べた『北陸自由共同新聞』の刊行も実現をみることはなく、北陸連合は一場の夢として終わったのである。
写真31 北陸自由新聞社の会計報告

写真31 北陸自由新聞社の会計報告

 『北陸自由新聞』の終幕は、同時に南越自由党の終幕でもあった。南越自由党の終幕をみるにいたった十六年半ばは、中央において自由改進両党のあつれきが激化し、また六月二十二日、板垣退助が帰国、以後自由党本部の動きも慌ただしくなった。杉田の関心はようやく中央の動静に向かうことになる。八月二十日、板垣を迎えて大阪中之島自由亭で関西自由懇親会が開催され、杉田も岡部とこれに参加、関西の同志等との交流を再開することになった。こうした状況のなか、十一月十六日の自由党臨時大会に出席するため杉田は上京することになった。そして以後、自由党本部の党務にかかわることになり、しばらく福井を離れることになった。彼の離福は福井における民権運動の凋落を象徴するものであった。また、十七年秋自由党の解党、改進党の休業化といったことのなかに、民間の政治運動(民権運動)は、弾圧と不況の波に洗われて、冬の時代を迎えたのである。
 十七年五月、自由党本部より植木枝盛が北陸遊説を行った。彼の日記によれば六日武生に到着、十日まで武生に、十一日鯖江、十二日より十六日まで福井、十七日芦原とそれぞれ滞在、遊説を続け、十八日金津を出発越前をあとにしている。しかしこのことに関し『福井新聞』は一行の記事も載せていない。ただこの遊説行の結果とは断定できないまでも、自由党解党の直前の十月九日に越前から九人の入党者が『自由新聞』に掲載された。それは、いわば福井における民権運動の余燼であったともいえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ