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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    二 政党の誕生
      南越自由党の結成
 前述したように福井における民間政治勢力間には微妙な異和状態が漸次露呈しつつあった。立憲政党の巡回遊説後の明治十五年(一八八二)七月十七、十八両日の『福井新聞』の社説は、福井の人士が中央政党の驥尾に付して政党活動に参加する姿勢を批判するとともに、「吾人ハ益々此ニ他ノ州県人士ニ依頼スルノ卑屈心ヲ除脱シ、先ツ第一着歩トシテ吾郷福井県人士ノ団結ヲ、吾郷福井県人士ノ率先ニ完備セサル可カラス、是レ地方自治ノ精神ナリ」と福井県人の自主的団結による独自の政党樹立を仄めかしたのである。
 なお十八日、若越改進党の岡部広、吉田順吉、吉田金吉による政談演説会が泰平座で行われ、また八月の初め福井新聞社は吉田順吉を坂井郡へ派出遊説せしめ、他方、武生での政談演説会も活況を呈し、中央政党の動静に呼応して福井・武生における政情は活発化しつつあった。一つには出獄後の杉田の動向が注目されていたのである。
 かくて杉田の体調回復を待って若越改進党の吉田、岡部を接点に福井新聞系勢力と武生の自由党系勢力との調整提携がなされ、福井での南越自由大親睦会と自由政談演説会の九月一日開催が『福井新聞』に予告された。主唱発起者は杉田定一、岡部広、安立又三郎、内田謙太郎、松村才吉と福井新聞社の山本鏘二、吉田順吉であった。当日は一〇〇余人が来会した。吉田が主唱者総代の資格で開会の趣意を述べ、ついで党名を南越自由党とし、規約一五条を決め、理事に杉田、岡部、吉田を、会計に安立、青木春平が、そして郡部委員が選出された。同夜には仙福寺で政談演説会が聴衆二五〇〇余人を集め、盛大に行われたことが報道された。また翌二日、役員が会同し党員募集の順序・方法および各郡懇親会の日割などが協議された。この南越自由党の旗上げは、参加者には種々の思惑が秘められていたと推測されるが、ともあれそれはいちおう形の上での南越諸勢力の大合同であった。
 「杉田定一家文書」のなかに、この九月一日のものと考えられる「南越自由党名列綴」が残されているが、それによると出席者は九六人であり、そのうち福井の二五人には誘成社、勉強会所属の福井新聞寄りの商人層が、南条郡の六人は鴎盟社員、坂井郡の二八人には丸岡の誘衷社員、金津の改進社員、また丹生郡の八人には慮愛会の代表が含まれていた(このほか、足羽・大野郡各四人、吉田郡一〇人、今立郡一一人)。さらにその他は、南越親睦会の発起人とその会員であった県会議員など、また十年代杉田と運動を共にした越前各地の地主層であり、これまでの越前における運動参加者を網羅していた。しかし、いずれ福井新聞系勢力と杉田をとりまく自由党系勢力との指導権争いの綱引きが、再発することが予想された。
写真28 南越自由党発起人名列

写真28 南越自由党発起人名列

 十五年九月、福井の東御堂前の長堅寺に南越自由党の仮本部が設けられた(仮本部は北陸自由新聞創設の仮事務所でもあった)。そして、九月から十月初めにかけて杉田、岡部を中心として県内各地への遊説が積極的に進められ、また親睦会が各地で開催され党勢拡張がはかられることになる。それと同時にかねてより、政党新聞発刊に強い意欲をもっていた杉田は、新聞刊行計画を着々と進行させていた。このことは『福井新聞』にとって重大な問題であった。十月十五日の同紙は、南越自由党中に豪農諸氏が、組織せらるゝ北陸自由新聞社の許可も最早近きにあるべければ、各政党本部の気脈を通せん為めの打合せ、且つは記者雇入れの為めに、杉田定一氏は既に去る十一日を以て、福城を発し大坂を経て東京に出るの見込にて発途されたり、又た同氏は大坂に壱週間東京に弐週間滞在の見込なりとぞ、又武生友愛社員松村才吉氏は不日、北陸自由社派出委員として本部に詰め居らるゝ由にて、北陸自由新聞社並に自由党の事務は、当分福井東御堂町長(前カ)堅寺方に取扱はるゝ趣きなり、自由の空気の盛んなるこゝに至りしは、誠に慶賀すべきの至りになんという記事を出し、また「競争ノ効能」と題した社説で、新聞や政党の間における善事の競争の効能を論じ、暗に杉田の政党新聞刊行と南越自由党内の新動向を諷した。このように九月一日にいちおうの結集をみた南越自由党ではあったが、『福井新聞』を拠点とする福井在住の士人層と、杉田をめぐる越前各郡村の地主層ならびに武生の商人知識人層との間の対立は顕在化していくことになった。
 『福井新聞』は、十月二十四、二十六の両日「謹ンテ福井士人ニ哀告ス」なる社説を掲載、福井新聞寄りの福井士人の団結による政党樹立を力説するにいたる。さらに第一号の発刊日を決めた『北陸自由新聞』創立準備会議の直前の十一月十一日に、山本鏘二は社員八田春二をともない、立憲改進党本部との連絡のため東上する。さらに翌十二月十日の北陸自由新聞開業の日を前に、同月六日付『福井新聞』の社説で立憲改進党機関新聞たることを宣言した。また、同月八日の同紙は、これまで杉田と歩みを共にしてきた社員吉田順吉の南越自由党理事解任と、同党と『福井新聞』との関係断絶を報じた。さらに、十日には山本鏘二自らがあらためて同紙が立憲改進党の立場をとることを強調した。
 以上のように『北陸自由新聞』の発刊により、『福井新聞』は改進党系の立場を表明することとなり、同紙にある程度依拠する福井の士人層は、杉田を中心とする南越自由党の隊列より漸次撤退することになった。
 他方『北陸自由新聞』刊行に関しては、すでに十月十日仮事務所において新聞発起人会を開催、ついで二十五日「新聞社規則」(資10 一―二二七)を発表、続いて十一月十五日新聞創立準備会が開催され十二月十日の第一号発刊が決定された。この間、『日本立憲政党新聞』の永田一二(大分県士族)、山本憲(高知県士族)、岡田茂馬(愛媛県士族)、元石川新聞記者の高桑与三吉、および松村才吉らの編集局入りも決定していた。
 また十月末から翌月にかけて党員獲得のための各郡巡回が行われ、各地で親睦会や演説会が挙行され、『北陸自由新聞』刊行と時を同じくして南越自由党の再構築が進行する。各地での親睦会や演説会の結果、越前各郡の商工人層知識人層や地主層を党員に獲得し、かつての南越親睦会員と武生の鴎盟・友愛両社の幹部を中核にし、自由党色を鮮明にした南越自由党の新スタートは目睫のことになる。十一月二十八日に結党のため臨時会がもたれ、南越自由党綱領同規約草案が決議された。そこでは役員に正副理事二人、幹事二人、常議員七人の公選役員や二人から七人の各郡委員を置くこと、通常会(毎年四回)と臨時会の開催、党費一か年金六〇銭、事務所は当分北陸自由新聞社内に置くことなどが決められた(資10 一―二二五)。
 このようにして十二月結党が許可され、ここに南越自由党が誕生したのである。その模様を『自由新聞』(明15・12・9)はつぎのように報じる。南越自由党には去る一日臨時会を、福井佐久良下町北陸自由新聞社に開き、各地方より来会されし代議人は三十名にて、規約改正の事、党員募集の事、及吾主義を拡張の為め難に遭ふ者を扶助する事等の数件を議せられ、且役員の改撰あり、畢りて酒宴を張り各十分の款を尽して退散されしは午後八時頃なりしと、偖其改撰になりし諸役員は、正副理事杉田定一、岡部広、幹事松村才吉、土屋久左衛門の四氏なりと
 なお、「南越自由党発起人名列」(資10 一―二二六)と「北陸自由新聞発起創立者出金誓約名簿」(杉田定一家文書)によれば、南越自由党の発起人がすなわち『北陸自由新聞』の発起人であった。その内訳は、大野・南条郡各一人、今立郡七人、丹生郡八人、足羽郡一五人、吉田郡三人、坂井郡二五人の計六〇人で、坂井郡の二五人をはじめそれぞれ各地の代表的な地主であり、数多くの県会議員経験者を含んでいた。ただ、足羽郡一五人のうち福井は佐野影規、岡部長を含めて五人にすぎず、しかも以後消極的な参加にとどまる人びとであり、福井での南越自由党勢力は微々たるものになったのである。また、南条郡の一人は鴎盟・友愛両社の代表を意味した。



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