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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    二 政党の誕生
      県下各結社の動向
 明治十四年(一八八一)の暮れから十五年の初めにかけて政情はあわただしく動くことになった。自由党の結成に続いて十五年二月、大阪に近畿自由党を母胎に立憲政党が、また三月には九州の民権勢力の合同による九州改進党が、さらに同月、十四年の政変で政府を追われた大隈ならびに彼の一党により立憲改進党が結成された。他方、政府側もこれら民間政党に対抗すべく立憲帝政党を結成せしめた。
 この動静は全国各地に波及し、福井においても三月中旬に武生の鴎盟・友愛の両社、丹生郡の順天・成志の両社、南条郡の交談・政談の両社、丸岡の誘衷社、勝山の共愛・共同の両社などによる越前七郡の連合会の開催とそこでの一大政党の樹立が報じられたように、県下諸結社の団結による政党組織の準備が進められた(『日本立憲政党新聞』明15・2・7)。また二月五日福井の豪商有志数名により政党組織の準備として誘成社が、三月には鯖江に成美社、ついで四月には金津に改進社、福井に知憲会、丹生郡に慮愛会、丸岡に再興誘衷社が結成されるなど、各地で活況を呈するなか三月に予定された県内の大同団結が、四月二十日若越改進党の旗上げでもってひとたびは結実した。それはいちおう改進党と名のり、また一般に改進党系の地方政党と考えられてきたが、内実は県内の自由改進主義勢力の結集であり、自由党ないしは立憲政党に款を通ずるものであって、いわば杉田の政局不在期、彼の代理者たる吉田順吉(福井新聞社員)と岡部広とが主導するものであった(資10 一―二二九〜二三三)。
 さて、杉田は六か月の刑期を終え六月十八日に福井の監獄分署を出獄し、しばらく家居で静養することになる。ちょうどこの時期、党勢拡張のため大阪の立憲政党の巡回遊説が行われた。そして注目すべきは、この遊説をめぐって福井新聞派と武生の自由党派との間の確執が表面化したことである。それは遊説員を迎え、いったんは両派の吉田順吉、松村才吉のあっせんにより福井、武生での合同演説会が計画されるが、結局失敗に終わる。そして七月七日に武生で独自の政談演説会が、また自由党員鴎盟社員等による懇親会が行われたのであって、そのことのなかには微妙な両派の対立が読みとられた。なお、立憲政党の巡回遊説の結果、若狭四五人、越前一八人の計六三人が入党した(資10 一―二四六、二四七)。
 またこの間、政府は民間政党の結成とその発展を阻止するため六月三日、集会条例を改悪し、政治上のいっさいの集会、結社、講談、論議に厳重な拘束を加えた。また、支社を置くことや他社と連絡通信することをも禁じた。自由党は結成後、東京に中央本部、地方に地方部を置き全国的な党勢の結集を策したのであるが、条例の改正により地方部の解散を余儀なくされた。福井では杉田の政局不在のなか自由党地方部の取組みが遅れていた。そして自由党は六月十二日、臨時大会において以後の地方党勢の再構築を策していたのであり、この大会に武生の内田甚右衛門が出席、これを機に内田、松村兄弟および安立又三郎らによって武生の商工層知識人層への自由党直接加盟が勧誘された。その結果、直接加盟者はその数三七人を数えた(資10 一―二四八)。



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