このように酒税の増税をめぐり世論が漸次沸騰するなか、十四年十月自由党結成を機に、植木枝盛の指導による減税運動が全国的規模で展開された。すなわち植木は、自由党結成大会に出席した酒造家とはかり檄文を草して、翌十五年五月、大阪での酒屋会議の開催と減税を政府へ請願することを、全国の同業者に伝えた。発起人には、松村才吉を介して安立又三郎と福井の市橋保身が名を連ねたが、檄文は全国の新聞にも掲載され大きな反響を呼んだ。政府はこの情勢に驚き会議の開催を禁止するとともに、檄文の署名者を処罰した。安立、市橋もまた罰金刑に処せられることになる。
しかしかかる弾圧にもかかわらず、十五年五月、二府一五県の酒造業者の代表が大阪に参集、植木の巧みな指導のもと秘密に会議を開き酒屋会議決議各項を決定、ついで酒税減額請願書を元老院に提出したのである。請願書には越前七郡中三〇〇人の委員として安立又三郎、安立七郎、松井吉三郎、松尾貞十郎、藤井五郎兵衛が、若狭の大飯・遠敷両郡五三名総代として時岡又左衛門、川村藤五郎がそれぞれ連署人として名を連ねた。
また六月二十日には南越酒屋懇談会が安立、藤井を中心に福井で八〇余人の会員で結成され、酒税軽減、自用酒類免税などの請願を決議した(資10 一―二四四)。減税運動は引き続き全国各地でも行われ、福井でも十五年九月には松岡の酒造業者一七人による酒税減額請願書が作成された(佐藤五右衛門家文書)。また、武生の安立又三郎らは、闘争の一手段として酒税の延納願を十五年秋に執拗に県へ提出した(資10 一―二四五)。安立又三郎らにより運動資金調達のため酒屋銀行の設立が企図され、十六年一月末には表26のように酒造業者二五人が酒屋銀行株主募集委員に選出されるとともに、酒造業者の拠出金もなされた(佐藤五右衛門家文書)。こうした酒税をめぐる運動は酒造業者を、ひいては諸種の商工業者を政治的に覚醒させ、以後民権運動に多くの参加者をみることになった。 |