杉田定一は、『経世新論』の筆禍により明治十四年(一八八一)一月拘引され、五月三十日金沢裁判所で禁獄六か月の判決をうけた。大審院へ上告したが却下され、九月に刑が確定した(資10 一―二四一、二四二)。彼は、この裁判闘争の過程で発病入院し、入獄が十二月に延期され、翌年六月まで収監されることになった。この事件は、彼の周辺に大きな衝撃をあたえることになる。中央では国会期成同盟が杉田の筆禍事件が遭変者扶助法に該当することを決定し、福井では越前七郡有志による冤罪建白書が大審院長あてに提出され、また武生の松村才吉らは『慷慨新誌』上に切歯扼腕の心情を吐露するところがあった。
こうした情勢のなか、置県後の県会議員選挙が五月に予定されており、各郡にその予選を主目的とした親睦会が生まれ、四月にこれらを統合するために南越親睦会が結成された。同会の発起人には表25の人びとが名を連ね、仮会頭に杉田、仮副会頭に加藤与次兵衛が選出された(資10 一―二一六、二一七)。杉田は、裁判係争中に県会議員に選ばれ、副議長に選任されるが県議会には出席できず、ただ六月の上告保釈後の七月十五日に、彼が催主となって南越親睦会を福井に開催する。会同者約四〇人、武生の鴎盟社員、福井の勉強会員などの参加をみたことが『大坂日報』(明14・7・20)に報じられている。 |