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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    一 地租改正反対運動と国会開設請願運動
      天真社(法理研究所)
 明治十四年(一八八一)二月に福井県が設置され、石黒務が県令として赴任してきた。新県令は、石川県地租改正再調査事業終了時の懐柔策として出された次年度地価再審査指令を反故にすることを意図した。
 国会期成同盟第二回大会後帰郷した杉田は、地租改正反対運動のエネルギーを国会開設請願運動から地方政党樹立へと進展させるため、自郷社を発展的に解消し、新たに天真社(法理研究所)を設立することになる。しかし、彼は十四年一月「経世新論」の筆禍により拘引され、その政治活動に支障が生じた。こうした状況にもかかわらず、前述の地価再審査指令消滅の達書が出された五月の一か月後すなわち六月二十三日、鯖江において安沢村以下のちに発起村となる村むらの代表が集まり、各村が一〇〇〇円ずつを出資することにより研究所の設置が決められ、九月には発足することとなる。杉田の裁判闘争が終わり禁獄六か月が確定した時であった(資10 一―二一八)。
 「法理研究所契約綱領」には、その第一則に「天地ノ公道人生ノ通義ニ基キ、吾人同胞天賦自由ノ権利ヲ拡張保全スル為メ本社ヲ創設ス、但シ社号ヲ天真社トス」とある。また、「同設置契約要領」では発起と加入という二種の資格を設け、発起は村ごとで、加入は個人資格とした。表24のように、これらの綱領や要領には二六の発起村が署名したが、そのなかには徹底不服一四か村が含まれており、天真社は、越前における地租改正のための法理的闘争の継続と地方政党の設立を目的として設けられたのであった。とくに、県側の地価再審査指令を反故にしようとする動きを「地価修正事件」ととらえ、同社にとっての最大の課題としていた(資10 一―二二一)。

表24 天真社発起村

表24 天真社発起村
 十四年九月、福井での第一回の発起村集会で、社長杉田定一、幹事山口透、教師長瀬汀と会計掛正員矢尾八兵衛が、また各郡の総代に(足羽・大野郡一組)堂本村の戸井孫左衛門、(坂井郡)安沢村の牧田直正、(南条・今立郡一組)向新保村の服部多介、(丹生郡)上石田村の青柳九右衛門が決められた(資10 一―二二三)。
 ついで、十月十二日の第三回臨時集会では役員構成を改め、新しく招聘した千々和謹三、秀真(岡部)広および山口透の三人を幹事とし、天真社の運営が任せられることになった。九月下旬より十五年四月にかけての地価修正事件に関する委任状は、発起各村より吉田・千々和あてに提出されることになる。また、社員(教師)長瀬汀は退社した(矢尾真雄家文書)。
 そして、十一月の第四回では、とくに修正事件への対応に関し、委任状の趣旨の遵守を求めるとともに、地価修正については石川県の指令を受けた村落に限るとしている。それとともに指令を受けた村でも負担金を納めない村は修正の権利を放棄したものとすると決議しており、法理闘争の一面がうかがえる。このほか、当面の社員募集目標を一万人とし、また毎月一回の定期演説会や有志交際会の開催を決議し、組織の強化をはかった(橿尾次郎兵衛家文書)。
 十四年十二月、坂井郡安沢村外一九か村地主総代の代人として吉田順吉は、石黒県令あての「南越六郡地価修正之儀ニ付上申書」(杉田定一家文書)を草した。そのなかで、地租改正再調事業終結までの経緯を詳しく述べ、千阪石川県令の十四年の地価再審査の約束が、五月の再審査指令消滅の達書により反故にされたことを糾弾、再審査が実行されない限り地価帳への捺印はできないと、強く再審査の履行を要求した。また、天真社も十五年に入り、同様の県令あての伺書を草して、地価再審査の不履行を激しく糾弾した(資10 一―二〇八)。
 このようにして地価修正運動が続けられるなか、いちおうの成果として十五年八月「丁地第一四六号」が坂井郡役所に布達され、十三年第二五号公布による地価再調査が坂井郡内に行われることになった。再調査の村むらは、坂井郡内四〇〇余村のうち七九か村であった(杉田定一家文書)。
  米ケ脇、浜地、平山、西谷、水居、加戸、二面、布目、田中々、番田、国影、井江葭、横
  垣、牛山、城新田、城、波松、赤尾、吉崎、北潟、細呂木、橋屋、樋山、坂口、山十楽、
  清王、山西方寺、山室、青ノ木、宮谷、沢、牛ノ谷、下金屋、北、御簾尾、矢地、菅野、
  定旨、千田、長畝、舟寄、上安田、境、江留上、江留中、藤鷲塚、西太郎丸、東太郎丸
  、針原、金剛寺、安沢、石塚、布施田新、正善、定広、木部西方寺、辻、井向、下関、
  新用、馬場、東善寺、谷畠、中番、下番、玉木、玉ノ江、藤沢、西今市、角屋、折戸、池
  見、野中、石丸、楽円、油屋、沖野々、砂子田、小野
 なお、坂井郡以外の再調査の実施状況は、資料が残されておらず不明である。こうして、運動はいちおうの成果を得つつ地租問題はようやく終焉を迎えることとなった。十五年三月、杉田の出獄を三か月後にひかえ、南越七郡有志者により「杉田鶉山先生記念碑並ヒ私学校設立緒言」が発表される。それは彼の地租改正反対運動における功績を顕彰するための記念碑の建立と、杉田の志を継ぐべき地方子弟の教育のための学校設立基金募集の企てであった(杉田定一家文書)。
 かかる企てが試みられようとした時期には状況はすでに新しい方向へ動きつつあり、また杉田不在のなか、彼自身が創設し彼の意図を実現すべく活動を続けてきた天真社も十八年ころまで存続するが、その財政的側面および指導層の内紛のなかに機能を低下させつつあった。すなわち、杉田が地租改正反対運動のエネルギーを地方政党樹立のバネにしようとした意図に齟齬を生ずることになり、新局面に対する新しい対応をせまられていた。



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