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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    一 地租改正反対運動と国会開設請願運動
      国会開設請願運動
 明治十二年(一八七九)十一月大阪での第三回愛国社大会に杉田定一が出席、自郷社の加盟が承認された。また、同大会において国会開設の願望書を天皇に奉呈することが議決され、運動の目標を翌年三月開催の全国集会におき、愛国社への加盟にはこだわらず賛同者の広汎な結集をはかり、全国的な国会開設請願運動が展開されることになる。
 北陸地方へは福岡の正倫社の奈良原至が遊説にあたることになった。彼は、十二年十一月に杉田とともに県下各地を遊説した。小浜では旧藩士を中心として十一年に設立された学習結社「義奮社」の高塚雄磨、佐藤晶などに、武生では松村才吉などと会し、福井では地租改正問題で来福中の立志社員寺田寛、坂義三などと連絡をとり、坂井郡下の地租改正反対の村民を自郷学舎に集め演説を行った。さらに、丸岡では自郷学舎員として在福中の福岡県士族古川純ノ介、宮原篤三郎などとともに国会開設願望のための演説会を開催、杉田が国会論、奈良原が租税論を演説した(「北陸紀行」『玄洋』八)。この遊説を契機に、これ以降杉田を中心に福井における国会開設願望の署名運動が展開されることになる。
 翌十三年三月に愛国社は、大阪に第四回大会を開催し、二府二二県八万七〇〇〇余人の総代一一四人が出席した。愛国社を国会期成同盟と改め、願望書起草員ならびに捧呈委員を選び、四月には「国会を開設するの允可を上願する書」を天皇にあてて提出した(福井の連署者は、高塚雄磨、町原煕磨、杉田定一、脇屋氏義、寺田寛)。しかし結局、請願書の受理を政府は拒否し、再び同年十一月、東京において代表委員六四人が参会して(福井からは杉田定一、佐藤晶、栗栖貞憲)、国会期成同盟第二回大会が開かれ、同合議書および遭変者扶助法を決めた。
 以上のように第三回愛国社大会からほぼ一年間は、国会開設請願運動のうねりが全国を席捲した。この運動は、維新後の現状に対して不満を抱き、この運動に何らかの現状打破を期待する士族層とともに、府県会の設置やこの時期の地租改正問題により政治的関心を高め始めた地主層、および維新後における新知識の習得の結果、地域の指導層となった商工グループなどが担ったのであるが、これら地主や商工層の登場は注目される。
 すでに述べたように福井における国会開設請願運動は、杉田を中心にして展開され、士族層、商工グループおよび地主層に働きかけられた。その結果、十三年三月までに一九四一人の、同年十一月までに七〇四一人の国会願望同意者の署名が集められた(表23)。

表23 国会開請願運動署名者数

表23 国会開請願運動署名者数
 十三年三月までの同意者を、前述の三つのグループに分けてその特色を述べる。まず士族層では上田豊弥、宇野邑士以下武生市中士族八九人、福井の下級士族「拾五番組」の松嶋寅松以下六五人、そして勝山中立社の士族伴野六郎、脇屋氏義以下二七人、丸岡誘衷社の町原煕磨、下里宣、堀鈍愚ら一四人の署名がある。ただこのうち、勝山中立社ならびに丸岡誘衷社の分は『自由党史』にある「石川県下越前大野郡勝山町村五十名総代脇屋氏義」、「石川県越前国坂井郡足羽郡百四十二名之総代町屋煕磨」に該当するものと考えられ、杉田の署名集計からは除外されよう。なおまた、同史に「石川県越前国有志五十七名総代寺田寛」とある分も坂井郡の署名の一部に該当すると考えられるが、杉田の集計とは別個であり、その具体的内訳は定かでない。
 なお、士族層の動向に関連して旧福井藩の士族層は、「起業営生ノ目途ヲ立テ度」いことを理由として、杉田の国会開設請願運動への参加の呼びかけを断っている(杉田定一家文書)。おそらく彼らは、交詢社グループによる『郵便報知新聞』の第三回愛国社大会への批判(愛国社は上流社会に忌避され国会開設運動の指導部として不適との内容)を伝聞しており、愛国社の指導による同運動を白眼視していたのであろう。彼らが十三年一月設立された交詢社に加入し、あるいは同社に親近感を抱いていたこととも関連しよう。
 つぎに商工グループについては、武生では国会開設請願運動を契機に、当時の新知識層であり商工グループの指導層であった内田甚右衛門・謙太郎兄弟が中心となってすでに社交クラブ鴎盟社が結成されていた。同社員と考えられる内田兄弟や増田耕二郎、松村才吉など一五人が署名している。また、在来産業としての蚊帳、蚕糸業などが盛んであった粟田部でも、小商工グループといえる嶋伴平ほか六〇余人が署名している。
 また、地主層の署名募集は坂井・丹生両郡を中心に行われた。坂井郡では、地租改正反対にかかわった村むらを中心に多くの村が署名に参加した。丹生郡では日野川に沿った村むらに運動が進められ、署名は個別的なものと村ぐるみの場合とがみられ、とくに不服村の署名の場合は村ぐるみで行われた。たとえば、徹底不服村の丹生郡下司村は、十三年で戸数四三で署名人は三二人である。また、この署名人は、十一年七月の上申書に連署した地主二四人と十三年三月の約定書に連署した地主三一人とほぼ同じであり、地租改正反対運動と国会開設請願運動の密接不可分の関係を示している(下司区有文書)。
 十三年三月の第一回国会期成同盟の閉会後も、引き続いて福井の国会願望署名運動は精力的に続けられた。前述のように、この二月には南越七郡連合会が杉田の主導により結成され、地租改正反対運動は新しい局面を迎えていた。またこの時期、武生においては、鴎盟社の異名同体ともいえる友愛社が、進脩小学校の同窓生松村才吉、長谷川豊吉(十九年五月から三十一年三月までは松下豊吉)、岩堀恒太郎、大柳栄治郎らを中心に結成され、国会開設願望の署名運動が積極的に開始された。また、九月には右の四人により自由舎が創られ、手書きの『慷慨新誌』が発刊された。同誌は、友愛社員間の学術啓蒙的内容であったと同時に「民権ヲ拡張シテ国会ヲ開設セスンハ国ノ独立ヲ企図スベカラス」(第二号、岩堀)や「政党ノ国家ニ要ナルヲ論」(第一一号、大柳)などに見られるように、とくに国会開設の必要を強調する内容をもつものであった(資10 一―二三六〜二四〇)。
 彼らはつぎのような一文をそえて署名簿を杉田に提出した(杉田定一家文書)。此頃ロ全国有志者惣代委員、国会設立請願ノ事ニ付、東京ニ於テ大会議ヲ開設サルヽ由遥ニ承ル、我儕一同夙ニ国会之開設ヲ渇望スル久矣、幸ニ君ガ東上ニ際ス、願クハ我儕一同之惣代トシテ政府ヘ上願之レ有ラン事ヲこの署名簿には、総代藤井善三郎、月尾五平、天谷留吉、大柳英次(栄治郎)、岩堀恒太郎、長谷川豊吉、松村才吉以下友愛社員二九人が連署している。こうした活動を通じて彼らと杉田との連繋は強まり、以後杉田の手足となって民権運動のなかに彼らの足跡が残されていくことになる。 一方、八月から十一月にかけて小浜の高塚雄磨、佐藤晶、山岸千尋が、さらに国会期成同盟の代表委員であった滋賀県の伏木孝内、岐阜県の柴山忠三郎、愛知県の荒川定英などが杉田を来訪し、運動の連繋と情報の交換が行われている。そしてさらに南越七郡連合会結成後の地租改正反対運動の進展に合わせて、地主層を対象として各郡への運動が進められた。こうして、表23に見るように十三年二月段階の一九四一人に加えて計七〇四一人の署名がえられたのであった。
 この時期の署名の特色は、表23にあるように、南条郡の不服村とともに従来運動の浸透していなかった吉田・大野・今立郡の村むらの署名が目立つことである。それらの多くは、戸長、地主総代などの勧誘による一村ぐるみの署名であった。また、坂井郡坂井港(三国)の約二七〇〇人の署名も、坂井商法会議所の副会頭近藤藤五郎、県会議員五十嵐七郎平が中心となり、坂井港の商工グループの代表たちの勧説による署名の累積であった。
 なお、第二回国会期成同盟は、今後の路線に関し、国会開設請願を再び継続するか、それとも自由主義的政党結成のための地方組織の強化をはかり、運動の新しい展開を策するかの意見に分かれて紛糾し、最終的には統一請願の再提出は否定された。ここに全国的な統一運動としての国会開設請願運動は、いちおうその幕を閉じたのである。しかし、第二回大会終了まぎわに政党団結有志の会合がもたれ、自由党結成の盟約が制定された。大会に集まった人びとは、この状況をふまえて十四年十月再び東京に会同することを約し、会同時には、憲法見込案を持参し研究することをも同意していた。愛国社系の政党組織論に左袒した杉田も、福井における運動の新構想を胸に秘めながら帰郷したのであった。




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