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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    一 地租改正反対運動と国会開設請願運動
      地租改正反対運動
 明治十年(一八七七)十二月から翌年六月にかけ、旧来の政府歳入を維持し、安定した租税収入を確保する目的で、あらかじめ定められた官の見据(収穫反米の査定額)が、各村よりの申告を無視して、各大区ごとに一方的に強要されることになる。この官の見据が旧租を上回った村は、ほぼ坂井郡域の十四、十五、二十四大区においても二五二村中一二二村にのぼり、旧幕府領や九頭竜川沿いの村むらにとくに過酷であった。かくて「徹底不服村」と称せられた五郡二八か村(表19)は、見据による大幅増租に断乎として不服を唱え、戸長、地主総代、上層地主を中心に一村をあげての反対運動を展開することになる。この二八か村の不服闘争が続けられるなか、県による承服村の地価算定が着々進められ十二年二月には、九年にさかのぼって新税法を実施することが七郡に達せられた。そして、算定事業の進まない不服二八か村には、第六八号布告(九年五月十二日)にもとづき近傍の類地に照して、同様に新税実施を命じる処分書下が下付され、地価帳の差出しが命じられた。しかし二八か村はこの差出しを拒み、七郡の改正事業は頓挫し、桐山純孝石川県令罷免、千阪高雅新県令赴任という事態を迎えたのである。そして十二年初頭より不服村による新税実施を命じる処分書下の撤回要求の運動が進められ、不服村の結束が強められた(資10 一―一六六、一六七)。
 こうした事態のなかに杉田定一が帰郷、登場することになった。彼の指導のもとに安沢村の牧田直正、上小森村の松田嘉右衛門らが土佐立志社と連絡をとり、また坂井・丹生・南条の三郡一六か村(表19)の地主総代の協議により、立志社員寺田寛、楠目伊奈伎の招聘が決められた。以後両名を部理代人とした法理闘争が進められ、再審の要求が続けられることになった。そして、これら不服村の多くは、あくまで六八号処分の撤回を求めて地価帳の差出しを拒否、ついに十二年九月二十一日には六八号処分の取消しを獲得したのであった。

表19 官製見据への徹底不服村

表19 官製見据への徹底不服村
 この状況は他の承服村にも波及し、地価帳未提出の五八村(第二不服村)やすでに地価帳を提出していた一四一村(第三不服村)もまた再審査を要請するにいたり、ここに当局に対する再審を求める声は越前七郡に広がることになった。そしてついに政府もまた再調査のやむなきを認め、十二年十二月十二日越前七郡地租改正再調査のことが、地租改正事務局総裁大隈重信の名で布達されたのである。このことは同月十八日には越前七郡の村むらに布達され、翌十三年一月には越前七郡地租改正手続書が矢継ぎ早に出され、再調査が開始された。この新しい情勢下、再調査を有利に導くための運動が杉田の指導により展開されることになる。彼は「南越七郡聯合会開設大意」なる檄文を七郡に飛ばし、ようやく盛り上がってきた地租改正反対運動を当時進めつつあった国会開設請願運動に連動せしめ、越前における民権運動の一大高揚を期することになった(資10 一―一七〇、一八七、二〇七)。
 一月二十二日、杉田は福井より再調査への対応を協議するため七郡各村の有志の出福を要請する。そして同月二十七日、七郡各村よりほぼ戸長クラスが村総代の立場で福井へ集まってきた。その人員は、二一三村、三三一人に及んだ(表20-1 改租一件につき集合村と人員20-2(つづき))。この集会後、杉田の呼びかけに同調する村むらは漸次増加を見、運動は七郡全域に展開されることになる。
 「南越七郡聯合会規則」にしたがって、たとえば、丹生郡の本保組一四村(本保、下氏家、当田、片屋、吉田、下野田、芝原、八田、上四目、上大虫、横根、三ツ俣、高森、下四目)といったように、各郡内に一〇か村から数十か村を単位に組合が結成され、仮惣代が選出された。それらの組は、表21にみられるように、越前七郡に広がって結成されるのであるが、その結成状況は二十八日から九日にかけて続々と杉田に報告された。
 さらに二月一日には足羽・丹生・今立・南条四郡の村むらの代表が集合した。表20によれば、一〇〇か村一五三人で、その内訳は戸長二七人、戸長代理・用掛五人、地主総代八三人、村総代六人、その他の地主三二人で、ともかく村を代表する人びとであった。また同日には、金津において坂井郡六六か村が集合、総代が選出され(丸岡郷村、金津郷村、坂井港郷村、川西郷村で各一人ずつ)、丹生郡の小曾原組でも二九か村が集合、辻又右衛門、中村喜太郎を総代に選出、南条郡では四二か村が集合、下平吹の三田村嘉左衛門、今宿の池端謙蔵、行松の島崎善四郎を総代に選出した。
 このように反対運動は村ぐるみならびに村の連合体でもって闘われたのであり、その根底には、村(民)対政府(官)という構図のなかに漸次民権への理解と自覚が芽生え始めたといえよう。そして二月十七日、各郡各村の組合総代ならびに有志の総結集のもと、福井本覚寺において南越七郡連合会の結成大会が開催された。参加者は、一八三か村、三〇五人にのぼった(表20)。
 なお、表20によって一月二十七日、二月一日および十七日の集会や大会に参加した村は、その重複を差し引いても四一七か村にのぼり、官側の報告「其同盟二五〇余ケ村」をはるかに上回っていた。さらに、二月二十七日にも坂井郡川西地方の一四か村六三人が、また同郡中央部の一六か村が集合している(表22)。かくて再調査をめぐっての運動は盛り上がることになった。以後再調査をめぐってその手続に関する不備を追及し各村より差し出す願伺書は、七郡連合会において草案するところとなる。そして、再調査に関する願・伺を提出した村むらは七郡連合会に結集した村むらであった(資10 一―一九三)。
 このように七郡連合会を拠点にした法理闘争が展開されるなか、県当局はやがて強行策に転じることになり、九月二十一日官側の収穫地価を指示し、また受書差出期限を同月二十八日と布達、さらに受書未提出の村へは検見法施行の諭告が出されるにいたった(資10 一―一八二〜一八四)。

表22 坂井郡の集合村

表22 坂井郡の集合村
 この県当局の攻勢に対し、同月二十三日丹生郡の下石田・平井・片粕村、坂井郡の千歩寺・中庄・西太郎丸・東太郎丸・安沢・石塚・上小森村の地主総代は、官側の不当な見据に対する反対運動を展開するための誓約書を杉田に提出し、また十月四日には坂井郡の下新庄・上新庄・東長田・舟寄・西太郎丸・小尉・西中野村、丹生郡の上石田・下石田・熊田・鳥井・片粕・清水尻・片山村、大野郡の深井・堂本村の地主総代が、県令に「昨日ノ御指令并検見法ノ義ニ付伺書」を提出して当局への抵抗を示した(杉田定一家文書)。
 しかし結局は、検見法施行の諭告にみられる官側の威圧と、知事のイニシアチブによる特別修正を規定した太政官第二五号布告(十三年五月二十日)を根拠に、次年度再調査の可能性ありとの千阪県令の甘言による懐柔のもと、各村はいったん受書を提出することになった。そして、十二月一日に県令より地租改正事務局総裁へ「越前国七郡地租改正再調之義ニ付伺」が、ついで十四年一月四日旧税法廃止の布達が出され、ここに石川県の地租改正再調査事業はいちおう完了した。なお、同伺に添付された新旧税額比較表によれば減税額は、四万三〇〇〇円余であった(資10 一―一八六、一八八)。
 このように地租改正反対運動は、再調査を勝ちとったとはいえ、官側の威圧と懐柔による村落間の分断策などのため、ついに妥協し受書を出すにいたった。しかし、運動は終わったわけではなく、新事態に対応する運動体制の再構築が、十四年二月の福井置県後に展開されることとなる。



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