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 第一章 近代福井の夜明け
   第三節 自由民権運動のうねり
    一 地租改正反対運動と国会開設請願運動
      自郷学舎と自郷社
 福井の自由民権運動は、杉田定一の帰郷によって始まったといってよい。彼は明治八年(一八七五)に上京し、采風社、集思社などの反政府的言論活動に参加し、ついで西南戦争の末期に土佐に赴き板垣退助の傘下に愛国社再興に尽力した。そして十一年九月、大阪で開催された愛国社再興第一回大会で決議された各地に民権政社を起こすという方針により、彼は郷土における政治活動への並々ならぬ意欲を抱いて、同年十月帰郷した。
 しかし帰郷した彼を待っていたのは、かつて編集長として名を連ねた『草莽事情』の記事による拘引であり、新聞紙条例により禁獄一か月の刑に処せられ、十一年の暮れを東京佃島の獄舎に送ることになった。 写真26 杉田定一

写真26 杉田定一

 そして翌十二年初めに再び帰郷した彼を待っていたものは、前年の中ごろから執拗に続けられていた地租改正反対運動であり、また政社の結成という課題も抱えていた。彼は十二年七月に発表した「大日本国越前州坂井郡波寄村自郷学舎設立大意」(資10 一―二〇九)のなかで、一校舎ヲ我郷里ニ設ケ之ヲ自郷学舎ト命ケ、以テ我同郷ノ人ヲ会メ、人間真理ノ在ル所宇内公道ノ存スル所ヲ講究研磨シ、以テ固有ノ知識気力ヲ開長シ、天賦自由ノ権利ヲ恢弘シ、社会開明国家富強ノ一助トナサント欲スル而已矣と述べた。それは福井における自由民権運動の狼煙であった。このように杉田は、政社創設の布石として坂井郡波寄村(福井市)の自宅の酒倉を改造し、在郷子弟の学習結社を設立する。開設当初の入校表には、県外者も一二人(熊本県士族一人、福岡県士族九人・平民一人、石川県一人)含まれるが、それは杉田が愛国社再興のため九州北陸への遊歴を行った際の人脈のなかに来県した人びとであり、以後杉田の福井における運動にも関係した人びとであった(杉田定一家文書)。
 この学習結社を基盤に、八月には民権政社「自郷社」を結成した。表18によれば当初、自郷社員は一六村、三四人、自郷学舎員は四九村、七九人である。そこにはほぼ九頭竜川に沿ってその両側に連なる村むらを、また地租改正に激しく「不服」を唱えた村むらの地主とその子弟の名を見出すのである。このことは府県会開設にともない、また地租改正をめぐって地主層の政治的関心が芽生え、杉田の民権政社結成の意図が、ともかく波寄村を起点に坂井郡の川西部、中央部を範囲にして広げられたことを物語る。そして坂井郡を中心として出発したこの民権結社運動が発展拡大し、地租改正反対運動およびそれに連結させることにより成功をみるにいたった国会開設請願運動の展開のなかに、運動は福井の全地域に広がっていくのである。

表18 自郷社員、自卿学舎員出身村

表18 自郷社員、自卿学舎員出身村






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