目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     五 戸籍と戸長
      石川・滋賀県下の戸長
石川県では明治九年(一八七六)十一月加賀・能登・越中の戸籍区を改正して、一三大区に区分する大区小区制をしき、「区方仮条例」「区方取扱規則」を定めた。八月に合併したばかりの越前七郡は従来どおりとされたが、十年三月には大区会所が区務所と改称され、続いて八月より「区方仮条例」が適用され、第六から第二十大区の名称が、第十四から第二十八大区に改称された。一方、滋賀県では各郡に区が置かれていたが、合併した嶺南四郡については、第一大区から第五大区として従来どおりの制度が踏襲された。
 十一年七月に公布された「郡区町村編制法」(太政官第一七号)では、大区小区制における旧慣無視が反省され、郡、町村が行政単位として認められることとなった。このため石川県では同年十二月、滋賀県では十二年五月に大区小区制を廃止し、郡区町村制をしいた。こうして、各町村ごとに戸長を選出し戸長役場を設けることになったが、石川県の「戸長公選仮規則」(資10 一―一一七)では「戸長は一町村或ハ数町村ニ一員タルベシ」とあり、滋賀県でも十二年五月に「若狭国及ヒ越前国敦賀郡戸長ノ儀ハ従前ノ通リ数町村聯合受持不苦候事」(滋賀県甲第三四号)と布達しており、両県ともに単立の戸長と連合の戸長が混在した。
 十一年十二月二十日、南条・今立郡長となった旧十八大区の区長松本晩翠は、戸長選挙に際して、各町村に戸長を置けば、村費もかさむので、市街はもちろん、山間の村落でも一谷たとえば五か村あるいは一〇か村が組合で戸長一人を選挙し、各村には用掛を一人置くようにと、各旧副区長に指示している(上野区有文書)。
 大野郡では十二年三月に戸長役場一〇九のうち単立が六九であったが(大野郡達二九号)、十六年には一九三役場のうち単立一六八と二・四倍になっている。全県では、十六年には一四七九役場のうち単立は一三〇八と八八パーセントを占め、連立戸長役場は市街地と山間部に少々みられるのみであり、単立役場の割合は嶺北九一パーセント、嶺南七六パーセントと旧県域により大きな差違がみられる(『明治十六年徴発物件一覧』)。また、戸長役場数でみると、嶺北七郡では十二年六月の八三三から十四年には一二二七と一・五倍に増加しており、全県でも、十四年以降、役場数は一四四四(十四年)、一四六〇(十五年)、一四七六(十六年)と漸増している(『県統計書』)。
 これらのことから、嶺北七郡では、当初県の指導もあり、連合して戸長役場を置く町村も多かったが、その後、平野部の村を中心に急激に単立戸長役場に移行し、福井県になってからもなお、その傾向を示していることがわかる。この結果十六年には、一戸長役場に対する町村数の割合が、一・三四と少なくなり(全国八位)、同じく戸数、人口の割合も七九、三九四とともに全国一位の少なさで、全国的にも単立戸長役場の比率の高い県となった(地理局「各府県戸長役場町村戸口表」)。
 



目次へ  前ページへ  次ページへ