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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     五 戸籍と戸長
      区長と戸長
 明治六年(一八七三)の区長配置をみると旧足羽県地域に特色があり、旧本保県地域の有力農民四人以外はすべて士族で、丸岡、大野、勝山に各旧藩出身者が配されたものの、そのほかは旧福井藩士族が占めていた。旧小浜藩士で大属の相馬朔郎は六年十二月の区長改選に際し、福井の人物が管内に「延蔓」しては不安なので、せめて「三歩通リ」は小浜よりも選出したいと、かつての同僚須田安崇に区長就任を要請しており、区長が準官吏として旧藩士族の勢力を左右するポストであったことがわかる(須田兵右衛門家文書)。
 七年の改正では、副区長の数はほとんど変わらないが、区長は三分の一に減じ、一九人中一七人が士族であった。また、給料は倍増して県庁の役人に準じる額になり、常勤となったため居住地を離れて赴任する例もあるなど、官吏としての性格が強められた。一方、副区長は非常勤のままで、ほとんどが管轄地の居住者であり、農村には農民、商業地には商人、士族町には士族が任命されている。ただし、福井近辺の農村部には旧福井藩士族が任命されることが多かった。
 また、七年の改正では六年と比べて戸長の数はほとんど変わらないが、副戸長の数を三倍にして、一〇〇戸内外の組を管轄させ、従来の各町村の庄屋役を兼ねさせることになった。各町村には、庄屋役の廃止後、伍長または伍長頭が置かれていたが、このことについて七年一月、新任の区長を前に県の係官は、幾村かを合わせて戸長副を置いたのは、旧来の名主庄屋などの「名義」を廃するためであると述べ、さらに、便宜のため町村に伍長を置くことを許可したが、伍長を従前の庄屋とみなして、陰に給米をあたえる町村があり、戸長・副戸長に賦課金を給与するのを無駄と考える者もあると述べている(坪田仁兵衛家文書)。副戸長の増員はこの状況に対応したもので、同年一月には伍長は廃止された(敦賀県第一五号)。さらに、九年の改正では各村に一人の副戸長が置かれることとなり、実質的に庄屋役の復活となった。しかし、市街地では、副戸長も各小区に一人置かれるだけとなった。




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