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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     五 戸籍と戸長
      明治六年以後の大区小区制
 明治六年(一八七三)一月に足羽県を合併した敦賀県では、三月の越前の「護法一揆」などの対応に追われたこともあり、五月になりようやく区画の統一作業を開始した。旧敦賀県下は本庁、旧足羽県下は福井支庁のもとで、区分改正を行い、九月一日から実施した(「静斎日誌」)。この結果、県内に約二〇〇〇戸を標準とする六〇の大区と、そのもとに三〇〇戸を標準とする小区を置き、各大区に官選の区長と権区長、小区に公選の戸長と副戸長を置くことになった。区長等の給料は民費で賄われ、全戸に賦課される戸数割と、村部は反別割(当分石高割)、町部は沽券割という二本立てで、管内均等に賦課された(敦賀県第一二八号)。この区分の結果は十一月二十日に『敦賀県区分表』として発表された。しかし、六年末には大区を一九に削減し、翌年一月には新たに区長、区長補助(のち副区長と改称)を任命し、区会所の位置を指定するとともに、小区の改正作業を行わせた(敦賀県第二八〜三〇号)。
図6 敦賀県大区区分図

図6 敦賀県大区区分図 <拡大図

 七年三月には戸長、副戸長の選挙を実施し(任期二年)、四月初旬には作業を終えて、新たな大区小区制を実施した。大区は、戸数により七等に分け、その下に約二〇〇〇戸を管轄する副区長を置いた。小区は三〇〇戸を基準としたが、戸数により四等に分け、各小区に一人の戸長を置いた。さらに小区の下には一〇〇戸を基準に組を新設し、組ごとに副戸長を置いた。このとき市街地は一〇〇戸を基準に旧町を統合し新しい町を創設したため一組一町となり、各町に副戸長が置かれることとなった。従来どおり区長・副区長は官選、戸長・副戸長は公選であるが、給料は、区長・副区長は大区戸数割、戸長は小区戸数割、副戸長は組内戸数割により負担することになった(敦賀県第七〇号)。またこの改正の結果は六月に『改正敦賀県区分表』により発表され、その後の区長、戸長等の異動は県達により追録された。ついで、十二月には、福井市街地の旧士族屋敷地を中心に第二十大区が新設され、区長・副区長が戸長副戸長総代人により互選入札された(「敦賀県報告」第四号)。
図7 福井市街大区区分図

図7 福井市街大区区分図

 九年二月の戸長・副戸長の改選を前にして、八年十二月に副戸長制の改訂が行われた(敦賀県第三一七号)。市街地では一小区に一副戸長となり、給料は月一戸一銭を追加賦課、六割を戸長、四割を副戸長の取り分とした。また、村落部では戸数に関係なく村ごとに副戸長一人を置くこととし、給料は月一戸一銭をその村戸数に賦課することとした。さらに九年一月には副区長の職制が改正されて各大区一人とされ(便宜により置かなくてもよい)、新たに区長補助を置き、正副区長および区長補助の給料が一戸の賦課金一か月六厘を超えないように、各大区において適宜その数を決めることができることとされたが、実際には実施されなかったと思われる(青木喬家文書)。



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