目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     五 戸籍と戸長
      足羽県の大区小区制
 明治四年(一八七一)六月に管内を十六区十六戸長に編成した福井藩では、以後、下部組織の編成が行われるはずであったが、七月の廃藩置県により中断、八月にいたってようやく新編成が行われた。すなわち、市街地では、士族卒の分は二〇〇戸を基準に戸長を一人ずつ置き、町方の分は数町で組合を作り組合総代を戸長兼とした(松平文庫)。村方では一区一人の戸長はそのままに、一〇村前後の組合総代を副長とした(坪川家文書)。各村の村長はそのままであり、士族卒の部分を除けば従来の郷長里長制度とほぼ同じものであった。なお、大野藩でも廃藩後の七月十七日、管内を一〇区に区分してそれぞれ戸長、戸長副を置いている(鈴木善右衛門家文書)。
 足羽、吉田、坂井、大野、丹生の五郡一円を管轄することになった足羽県は、五年一月五日には七人の郡中区分取締掛(大野、丹生郡は二人)を任命し、郡ごとの区編成にとりかかり、十日には郡長三人と郡長副五人を任命し、ついで、二十七日には、一区一〇〇〇戸を基準に、県下を七〇区に区分し、各区に戸長と副長を任命した。郡長、郡長副にはほぼ福井藩領であった足羽・吉田両郡の二人を除いて、旧本保県管轄地の有力農民が選ばれている。また、福井藩では、すでに三年二月の民政改革により村方三役を廃して、各村に村長を置いていたが、二月十七日には、各村の役人(庄屋、長百姓、総代)を選挙するよう布達した。これも旧本保県のしくみを踏襲したものであり、足羽県が旧本保県の民政を尊重していたようすがうかがえる(坪川家文書)。
図5 敦賀・足羽県の区分図

 図5 敦賀・足羽県の区分図 <拡大図

 五年四月、太政官布告第一一七号により庄屋などの村役人が廃止されたため、足羽県では五月三十日に郡長、副郡長を廃止し、町の庄屋、十人頭と村の庄屋、長百姓をそれぞれ戸長、副戸長と改称する。しかし戸籍の編制作業が最終段階にいたっていたため、取扱事務は従前のとおりとし、実際には七月下旬に改正作業を行った。すなわち、同月十九日に、従来の区の戸長、副戸長を一般戸長とし、改称したばかりの村の戸長、副戸長を、さらにそれぞれ副戸長、村総代と改称して整理した。また市街地では、区の下に新しく町組を置き、各区に戸長、各町組に副戸長を置いた。なお、さきに廃止した郡長、副郡長はいったん郡戸長となり、七月三十日には郡中総代、同差添とされた(坪川家文書)。
写真25 郡長の辞令

写真25 郡長の辞令





目次へ  前ページへ  次ページへ