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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     五 戸籍と戸長
      敦賀県の大区小区制
 戸籍法では戸籍吏員である戸長、副戸長の規定はあいまいで、従来の村役人の兼務でもよいとされたため、諸藩および廃藩後の諸県の対応はさまざまであった。このため政府は、明治五年(一八七二)四月に、旧来の村役人を廃し、戸長、副戸長がその役割をも引き継ぐこととした(太政官第一一七号)。したがって戸籍区も単に、戸籍編成のためだけでなく、行政区としてとらえられることになった。さらに同年十月には、戸長の上に区長副区長を置けることとなり、大区と小区という二段階の行政区が作られることになった(大蔵省第一四六号)。
 福井県域でも諸藩、諸県の対応はさまざまであったが、敦賀県として県域がまとめられていくなかで、統一的な大区小区制がしかれていった。
 小浜藩では四年六月に管内を四十数区に区画し、各区に戸長、副戸長を置き、また、廃藩直後の鯖江県でも、従来の大庄屋組を基礎に管内を七区に区分し、各区に戸長を置いていた(岡文雄家文書)。四年十一月、これらの県の管轄地を中心に成立した敦賀県は、五年三月に管内を三七区に分け、各区に戸長、副を置いたが、若狭三郡には戸長と副が各区に一人ずつ置かれたのに対して、越前三郡では敦賀、武生、鯖江などの市街の区には戸長が置かれたものの、他は副だけの区が多かった(岡本卯兵衛家文書)。
 このような差異が生じたのは、若狭三郡がすべて旧小浜県の管轄地であり、江戸時代末には、三郡の村むらを二七の組に分けて支配した制度を、そのまま踏襲できたのに対して、越前三郡、とくに今立、南条の二郡は福井県、鯖江県、本保県などの管轄地が錯綜しており、このときはじめて一円的な支配が可能となったためである。さらに、越前三郡は、木ノ芽山地により敦賀郡と南条・今立二郡の二地域に分割されるため、まず一月九日には、敦賀郡へ、村町に区を立て番号をつけるから、「元肝煎共」は、戸長、副長と打ち合わせ遠近などの不都合がないようにせよと布達し、同時に戸長三人、副長三人を任命して郡内の区分作業にあたらせた(那須吉兵衛家文書)。また、二月九日には、南条・今立二郡に区長一人、戸長六人、副長三人を任命し、同様に二郡内の区分作業にあたらせた。区長、戸長には、旧鯖江藩の士族を中心に元福井県、鯖江県の戸長が任命されている。続いて二月末日には一四人の副長が追加任命された(岡文雄家文書)。若狭三郡には同様の作業を行った形跡はないまま、三月には全管内三七区の区長、戸長、副長が発表されている(岡本卯兵衛家文書)。
写真24 区長・戸長・副戸長設置の布令

写真24 区長・戸長・副戸長設置の布令

 四月には太政官より従来の村役人を廃して戸長副戸長とすることが布告されるが、敦賀県ではこれに対応した形跡はなく、各村の村役人は従来のままであった。六月には、敦賀の市街地三区を一区にまとめ三五区とし、八月には、あいつぐ戸長、副の退役願に対し、区の再編を考えているので便宜の区分を研究するようにと慰留している(西野四郎太夫家文書)。十月に区長副区長の設置が許可されると(大蔵省達第一四六号)、十一月、県下を二九大区に区分する大区小区制をしく(岡文雄家文書)。この区分の実際は不明の点が多いが、遠敷郡の第十一大区では、約一三〇〇戸が、一〇〇戸前後で一一小区に分けられており、各小区に戸長と副戸長が置かれている。各小区には数村が含まれるが各村の村役人はこのとき廃止された(岡本卯兵衛家文書)。なお、南条郡の二十一大区では約一七〇〇戸が一〇小区に分けられており、遠敷郡の第十一大区と比べ一小区あたりの戸数が多くなっている(武生市史編さん室文書)。



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