明治四年(一八七一)四月に出された「戸籍法」(太政官第一七〇)は、明治新政府が、版籍奉還により全国の諸大名より返還された「人民」を、全国画一的に把握しようとするもので、新政府にとってきわめて重要な施策であった。具体的には、全国に戸籍区を設けて、戸籍事務を行うための戸長・副戸長を置き、従来別々に管理されていた士族、農民、商人などの別なく、各町村とも家並みの順に屋敷に番号をつけ、一家族ごとに家族構成、年齢などを記載する戸籍帳を作成するもので、人びとの出入りも含めて恒常的に人民を把握しようとするものであった。五年二月を期して全国一斉調査を行ったため、この年の干支をとって壬申戸籍と呼ばれる。
県下諸藩では四年六月ころから下調作業が進められ、五年に入ってから、これらの下調をもとに足羽県と敦賀県によって編成作業が行われ、敦賀県は八月二十五日に二〇五冊、足羽県は同三十日に三六六冊の戸籍簿を政府に提出した。この結果は七年三月に「日本全国戸籍表」として公表された(表17)。提出の順番は敦賀県は八番目、足羽県は一〇番目と全国的には早いほうであったが、編成作業は必ずしも順調ではなかった。足羽県では当初下調帳の提出期限を二月末日としたが、全般に遅れぎみのため期限を三月十日に延期している。しかし、それでも集まらず、県の担当者は、きびしく催促すれば戸長は租税方の用事もはなはだ多いため、ただ謝罪するのみであり、とくに農村部で、戸長が年貢収納に追われて、作業が遅れていることを指摘している(山内勘兵衛家文書)。ともかく、福井市街では四月初旬から西御堂町の本覚寺において、下調帳をもとに戸主を呼び寄せ人員検査を実施しており(越前史料)、この後清書をして東京に送り出したのは、七月十一日であった(坪川家文書)。 |