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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     四 租税・財政
      県の財政規模
 江戸時代の営業免許料などは国税の雑税として明治八年(一八七五)二月まで継承されるが(太政官布告第二三号)、五年九月には遊女、飯盛等の税が地方に移され(大蔵省第一二七号)、また六年一月には国税の僕婢・馬車・人力車・駕篭・乗馬・遊船等諸税について付加が認められ、道路橋梁の修復や貧民救育、小学費用、邏卒入費等に充当されることになった(太政官第三一号)。これらの府県限取立税金は七年一月に「賦金」と改称されている(太政官第七号)。さらに八年二月の雑税廃止以後、九月には国税と府県税の区別が布達され、府県税は国の許可を得て地方官において施行できることとなった(太政官達第一四〇号)。
 このため敦賀県は、九年二月、「県税規則」により、県税として、宿屋、料理店などの営業税や諸市場税、劇場税などについて等級別に賦課する方法を定めた(敦賀県第三一号)。続いて、同月従来の賦金の整理を行い、興行税、貸座敷税、芸娼両妓税を改正(敦賀県第三二、三三号)、三月には「県税延納処分規則」(敦賀県第七三号)、四月に「水車石灰取締規則」(敦賀県第九六号)、五月に「諸車追加税」(敦賀県第一三六号)とあいついで布達して、県税の整備を行った。九年の県税の規模は一万円余で、その配分案は県会に諮問されたが、それによれば半分が勧業費にあてられている(表14)。
表14 敦賀県の県鋭配分案(明治9年)

表14 敦賀県の県鋭配分案(明治9年)
 県の経費は「県治条例」の基準により定額金として支給された。定額金は、県庁職員の月給のほか、筆墨や薪炭、旅費などの庁中経費にあてる常備金と、管内の堤防、橋梁、道路などの応急修理費にあてられる予備金からなっている。県の実際の経費はこの定額金と前述の賦金、県税で賄われるが、不足分は「民費」により補われた。
 この「民費」は府県費用のうち管内の人民に賦課して支弁されるもので、官舎の新築修繕費、道路橋梁の修繕費、堤防費などは官費と民費の比率が定められており、区長戸長などの給料旅費、布達書の印刷配布費などは全額民費と定められていた。また、賦課の方法も、反別割、戸別割などが併用されており、民費の実態には多様なものがあったが、敦賀県では七年五月「民費賦課之規則」(敦賀県第一二〇号)によりその統一的な賦課の方法を定めた。
 予算制度の確立前にあっては県の財政規模を把握するのは困難であるが、六年の『敦賀県治一覧表』によりその一端を知ることができる(表15)。「歳入」「歳出」は管内の国税の収支であり約二八万円弱の入超である。これは「歳入」の九六パーセントを「地租等」が、また「歳出」の八五パーセントを「家禄等」が占めていることによる。「歳出」のうち月給、常費、捕亡費、騒擾諸費が国費より支払われた県の経費であり、うち騒擾諸費は六年三月の「護法一揆」にかかわる臨時費であるから、残り四万二七〇〇円余が通常の経費の規模である。なお支出基準である「定額金」と比べると「月給」の額に七〇〇〇円の差異がみられる。このほか「賦金」三〇〇〇円弱と「民費」五万三〇〇〇円余に、教育費のうち、管内一律に賦課された「中小学準備金」と、それ以外に賦課された「学費募金」の合計約四万三五〇〇円を加えた約一四万二〇〇〇円が一年間の経費の規模となり、うち六八パーセントを「民費」が占めている。八年十一月の第二回県会で「民費賦課定則」の改正について審議されているように、この「民費」に関することが、初期民会を通じての最大の審議事項であった。
表15 敦賀県の財政概要(明治6年)

表15 敦賀県の財政概要(明治6年)
 ところで、町村の経費は、江戸時代の慣行を踏襲して、町村民が負担したが、県の経費としての「民費」を含めて、これを民費と呼ぶ場合もあった。六年から五年間の福井県域の民費は一六四万円にのぼり、地租改正費、学校、土木、区戸長役場関係費で全体の七五パーセントを占めている(表16)。

表16 民費の推移(明泊6〜10年)

表16 民費の推移(明泊6〜10年)
 なお、府県財政の内容と範囲が明確にされるのは、十一年七月の「地方税規則」(太政官第一九号)により、地方税で支弁すべき費目が定められ、予算の編制方法が規定されてからである。また、同時に公布された「府県会規則」(太政官第一八号)により、地方税予算の議定権が制度化された。また、各町村限りの入費は町村協議費として区別され、町村会で議定することが認められた。



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