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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     四 租税・財政
      地租改正
 明治六年(一八七三)七月、「上諭」「太政官布告第二七二号」「地租改正条例」「地租改正規則」「地方官心得」からなる地租改正法が公布され、従来の貢租制度の不統一による負担の不公平を是正するために、土地収益を基準とした地価を設定して、その三パーセントを地租として徴収することとした。このため、一筆ごとの土地について、納税者たる所有者を確定し、面積を測量し、地価を算定する作業が必要であった。
写真23 地租改正の取調順序

写真23 地租改正の取調順序

 敦賀県では七年六月、長文の告諭書と「郡村取調規則」(敦賀県第一二三号)を公布して具体的な作業方法を示した。第一条では各郡に総代人を置いていっさいの事務を掌握することとし、第二条取調順序大略では、まず地主が持地一筆ごとに竿入調査し、戸副長が一字限図面より一村地引絵図を製し、区長を経て県に提出、受検後、地主は一筆ごとに収穫米金より地価を取り調べて戸長に提出、戸長はこれを編集して地価取調帳とし、図面とともに区長を経て県に送達するとされていた。このように紛争を避けるために、上からの一方的な作業を行わず、地主、戸副長、区長を実際の作業担当者としたため、管内の区長たちから伺いが殺到した。県ではこれらの伺いとそれに対する指令を「租税課改正掛報告」として七年九月の第一号から八年八月の第三〇号まで管内に公布して、その趣旨の徹底をはかったものの、この間作業はほとんど進まなかった。
 中央では八年三月に地租改正事務局が設置され、同年七月に「地租改正条例細目」が制定されて事業が本格化する。この細目では新たに地価調査の方法として村位と地位の等級方式が採用されることになった。田畑一筆ごとに収穫量を確定し、地価を算出するのが、実際には大変困難であったため、村と田畑を等級づけし、その等級にもとづいて地価を決定しようとしたのである。八月三十日には、全国いっせいに着手し、翌九年までに完了すべき旨が達せられた(太政官達第一五四号)。なお、この等級方式は、管内の予定収穫量を各村の等級に応じて割り当てることにより、その確保を可能にし、官による収穫量の押し付けの手段として機能することになった。
 このような状況をうけ、敦賀県でも改租事業が実際に着手される。八年五月の第一回敦賀県会では、地租改正総代人について審議がなされ、区戸長が兼務する案と総代人を別に選出する案が拮抗、結局、その判断は各区長に任された。このため各区長は会議終了時には総代人の人選を求められている。また、総代人会は毎月、嶺南、嶺北に別れて開くことになった。さらに、この県会決議をうけて大区会が開かれ、たとえば第六大区では着手時日を八月一日と定めて、具体的な着手順序を定めている。
 実際の作業例を、第十大区四小区の足羽郡合谷村(福井市)でみると、八年十一月村民二人を測量伝習に派遣、九年三月に測量にかかり、五月には丈量を行った。八月二十日には十大区のうち六小区四六村が今市村善良寺に下調会所を設置し、各村むらの伝習人が丈量済のデータを持ち寄って図上作業を行い、合谷村は十月に字限地籍絵図一二枚と小全図および順記帳を県に提出している(片岡五郎兵衛家文書)。
 この間、八月二十一日には敦賀県が廃されたが、作業は中断することなく石川県と滋賀県に引き継がれた。伝存する地籍図の作製年月をみると、両県ともに九年の十月、十一月に集中しており、十一年作製のものはないことから、地籍絵図と順記帳は九年末には完成していたと思われる。とくに滋賀県となった嶺南四郡の改正事業は比較的順調に進み、十年六月には、派出されていた地租改正事務局員は事業の完了を復命し、新旧税額表を提出した(表12)(資10 一―一五七)。

表12 領南4郡の新旧税額(明治10年)

表12 領南4郡の新旧税額(明治10年)
 しかし、石川県となった嶺北七郡の改正事業は順調には進まなかった。合谷村の例でみると、九年十一月に県官による実地検査があり、終了後、村等級表の差出しを命じられる。四小区の村むらの副戸長は自分の村を除いて投票して、等級表を作製し戸長へ差し出した。ところが結果が不都合ということで二日後に区会所に呼び出され再投票をしている。この結果がどう生かされたかは不明であるが、最後には、合谷村を含む第十大区の田方等級表は十二月十三日、仮会所運正寺において投票開票され、一五二か村が一五等にランクづけされた(片岡五郎兵衛家文書)。このような混乱は各地で発生しており、たとえば、同年十二月、南条郡の第七大区区会所は、正副戸長会で選挙した村等級の結果が、一つの村について最高と最低の見込みがあるなどして、訂正せざるをえなかったので、各村の一筆等級も実直に取り調べて至急検査をうけるよう命じている(上野区有文書)。
 十年四月には、各村からの等級表も出そろい実地検査にとりかかり、同年十月に検査を終えている。改租事業の最後の作業となる収穫量の調査は、十年四月にその取調べ方が達せられて、十二月には各村からの上申をみる。しかし、県側は十一月には村むらからの上申を待たずに一方的に見据額を決定して、旧二十二大区(足羽郡)の村むらを最初として、次々と越前七郡の各村むらへ見据額を押しつけたのである(「越前国七郡改租事業経歴書」)。そして十一年の暮れには七郡中二八村を除き作業を終え、派出されていた地租改正事務局員は事業の完了を復命し、新旧税額表を提出した(表13)(資10 一―一六六)。

表13 嶺北7郡の新旧税額

表13 嶺北7郡の新旧税額
 このように、十年暮れから始まった収穫米調査が非常にきびしい結果をもたらしていくなかで、すでに「多分の減税」となった近江、若狭、加賀などと比べてもきびしい結果が予想された。このため、十一年一月、越前七郡各大区の区長は桐山権令に建白書を提出し、見据えの減額がなければ改租事業の「整頓」はおぼつかないと指摘した。また、中央からの派出員が「遠邦の士族」であり、見据えがここ二年ほどの作柄だけを見てのものであること、しかも彼らが、将来地方にあって地租徴収の責任にあたり、直接人びとの疾苦をなめるという「杞憂」もない立場にあることを指摘している(青木喬家文書)。これは、丈量調査から始まって、個々の地主、村むら、小区、大区と積み上げられてきた改租作業の結果が尊重されることなく、中央派出の掛官によって強引に作業が進められることに対する不満の表明であった。表12、13に見るとおり、嶺南四郡と比較すると、新旧税額の差は大きく、十三年の再調後の結果と比べてもその差は明らかである。
 これに対し官側は、越前国内が「錯雑の封域」であり、それぞれ税法を異にしており、概して旧幕府領の各村は三分より四分までの増額となり、その他の各旧藩領の村むらは二分内外の減額となると把握しながらも、増額の村むらの苦情は、あえて無視して改租事業を強行した(「越前国七郡改租事業経歴書」)。一村を除いて旧幕府領である不服二八か村の「見据」結果は、旧税額と比べると大変きびしいものであるにもかかわらず(表13)、旧税額の低さを理由に強引に押しつけたことから、反対運動を招くこととなったのである(第一章第三節一)。
 なお、九年から地租改正の結果をうけた新税として、地租が徴収されることになっていたが、敦賀県は九年七月、上述のように改正作業が完了せず新税額が未定であったため、暫定的に八年の租額に比準して徴収することとした(敦賀県第二二九号)。また、十年一月地租が地価の三パーセントから二・五パーセントに減額された(太政官布告第一号)。このため滋賀県ではこの減租分を備荒金として積み立てたが(滋賀県乙第二七号)、石川県ではこの分を減額して徴収した。



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