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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     四 租税・財政
      貢租と壬申地券
 明治四年(一八七一)十一月、敦賀、福井(足羽)の二県が成立したが、管轄地には幕府領をはじめ一〇の藩領のほかに旗本領も広がり、税制の慣行はそれぞれ異なっていた。しかし政府は、税は旧慣によると規定して改革を凍結したため(太政官第三六七)、藩政以来の方法、すなわちその年の秋に県庁より各村むらに「租税上納割賦書」が交付され、翌年の春に収納が完了すると「租税皆済記」が村ごとに交付されるという村請制が、八年の貢租分まで基本的に踏襲された。ただし、高掛三役は四年七月(太政官第三七四)、扶米永銭は九月(太政官第四八四)にそれぞれ廃止された。
 また、四年の八月には、貢租を貨幣で納める石代納が全面許可となったが(大蔵省第三三)、敦賀県の場合、六年の地租は米三万七四三石余と金五六万七一四〇円余であり、米納は同年の米価一石三円二三銭余で換算するとわずか一五パーセントを占めるだけであった(『敦賀県治一覧表』)。また、足羽県では五年九月、貢米の俵入の量が、元福井藩領四斗五升六合、元丸岡領四斗六升三合、元大野、勝山、郡上領四斗六升、元鯖江領四斗五升とそれぞれ異なっていたため、京桝で一俵四斗二升に統一した(坪川家文書)。敦賀県でも同年十一月「貢米規則」(敦賀県第二七号)を布達し、同じく俵入り四斗二升とし貢米の統一をはかり、貢米納所を若狭国一円は小浜港、敦賀郡は敦賀港、南条・今立郡は坂井港に指定した。
 五年二月、政府は「地券渡方規則」(大蔵省第二五号)により土地の売買、譲渡のたびに地券を発行する旨を達し、さらに同年七月には制度を発展させて、売買譲渡に限らず、全国の土地所有者のすべてに地券を発行することとした(大蔵省第八三号)。壬申地券と呼ばれるこの地券には面積、地価、所有者名等が記されているが、地租額の表示はなく、したがって、この地券が発行されても旧貢租が引続き徴収された。
写真22 壬申地券

写真22 壬申地券

 また、政府は五年九月「地価取調規則」を達し、売買地価主義を否定して土地の収益を基準とした地価決定方法を採用したため、敦賀県では同月、「人民共」に検地を恐れる弊習があるが、「彼是迷惑狐疑」しないようにと告諭して、「地価取調帳」の雛形を示し、十月十五日までに提出するよう布達した。なお同時に、大飯郡の塩野了をはじめ各郡の区長から一人を選んで地券掛に任命した(敦賀県第一二号)。
 足羽県では、七月二十五日に管内五郡の内より何人かの戸長を呼び出し、この地券発行が増税の手段ととられるなどの動揺を人びとにあたえないように、配慮を促していた。また、八月七日には郡中惣代の河野次郎右衛門と広瀬四郎左衛門を等外二等出仕に採用して地券掛として福井に常勤させ、郡中惣代差添の渡辺珍郎ほか四人を同じく地券掛として等外四等出仕に採用し、彼らに管内を巡回させて趣旨の徹底をはからせた(坪川家文書)。
 地券は敦賀県では五年十一月には交付を完了したが(丹羽邦男『明治維新の土地変革』)、足羽県では同年十一月ころから発行された。さらに、敦賀県へ合併後の六年一月二十八日には、郡中会所から、地券は旧足羽県庁の手で渡し終わってから新県に引き継ぐ旨が達せられている(木下伝右衛門家文書)。しかし、地券の交付は、丹生郡の海岸沿いの上海浦、大樟浦、梨子ケ平村には、三月四日に、福井東御堂(東本願寺別院)において地券方より戸長に地券が渡されており、また、大野郡では、一揆の影響により六年十月二十三日に地券が渡されているなど、地域によって大きく異なっている(野尻源右衛門家文書、木下伝右衛門家文書)。それでも、敦賀県では六年四月に「地券取扱規則」(敦賀県第三九号)を交付してその取扱いに注意を促していることから、このころには地券交付作業はほぼ一段落したと考えられる。



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