司法・警察は聴訟課の所管であり、明治四年(一八七一)十一月の「県治条例」(太政官第六二三号)では、その職務内容を「県内の訴訟を審聴してその情を尽すこと」「県内を監視して罪人を処置し捕亡のこと」としている。敦賀県では四年十二月、本庁の聴訟課付属として四人、鯖江・小浜に二人ずつの捕亡方を置き管内取締りにあたった。その後、役職の改廃と人員の増加が行われ、六年一月には敦賀、小浜、武生、鯖江に屯所が置かれ、邏卒伍長四人と邏卒一二人が配置された(「福井県史料」三五)。
足羽県では聴訟課のほかに監視捕亡が置かれたが、五年一月には「聴訟方訴書取扱之規則」「訴訟人心得定則」「糾問方取扱規則」「捕亡方心得」「出火之節心得」などが布達された。ついで同年二月末には「捕亡勤向規則」「捕亡方分配表」を布達、足羽県下(福井)、勝山、丸岡、織田の各屯所と、松本筋(福井)、木田筋(福井)、浅水、大野、細呂木、坂井港、砂子坂、四ケ浦の各出張所に捕亡長六人、捕亡方伍長六人、捕亡方二五人を配置し、定額三二九〇両で「窃賊其外悪徒ヲ捕縛セシムル」こととした。同年八月捕亡方を管内取締邏卒と改称した(松平文庫)。
六年一月足羽県を併合した敦賀県は、取締邏卒伍長六人、取締邏卒三四人、探索方七人を、福井、大野、金津、坂井港、丸岡、浅水、勝山の各屯所に配置し、同年五月には「取締邏卒法則」「邏卒伍長心得」「邏卒規則」など服務規定も定めた(「福井県史料」三五)。
八年三月「行政警察規則」(太政官達第二九号)が制定され司法警察と行政警察の区別が明確にされると、敦賀県では同年四月、聴訟課から警察と懲役に関する業務を庶務課に移し、警察掛と懲役掛を置いた(「敦賀県報告」)。さらに同年十一月の「府県職制並事務章程」(太政官達第二〇三号)にもとづき、十二月に警察事務を管掌する第四課警保が独立した。これよりさき同年十月には邏卒を巡査と改め、警部が新設されて各出張所にも派遣されることとなった(太政官達第一八二号、同布告第一五八号)。これにより敦賀県では同年十一月に一等から六等までの警部が置かれることとなり(敦賀県第二六六号)、翌九年三月の警察区画表では、県下は六大警区に分けられ、各屯所および分屯所の受持区が定められるとともに、七〇人の巡査が配置された。さらに、四月には分屯所を廃して屯所とし、その受持区域を小警区と改称している(敦賀県第七五、一一五号)。
警察費は管内費で賄われるため、すでに八年五月の第一回敦賀県会(民会)で「人民保護のため」警察の拡張が可決されているが、九年六月の第三回敦賀県会では巡査を増員し、各大警区ごとに警部の出張所を設置する案が審議された。この結果、巡査を五〇人増員して一二〇人とし、管内を六大警区に分けて出張所を置き警部を派遣し、一八の小警区に屯所を置いて巡査を配置することとし、予算二万五六八一円のうち民費として一万八八〇五円が計上された。この案は十年一月より実施することとなったが、九年八月には敦賀県が廃止されたため実施されなかった。
ところで、敦賀県では、九年五月、各大区長に、六年に布達した違式 違条例の徹底をはかるよう促している。屯所の増置により、もし見あたり次第「条儀」に照して犯人を処分するようなことになっては、とくに何も知らない「山間僻邑」の人民には「苛刻の処置」となり、かえって「人民安寧保護」の趣意にもとると心配したからである。また同時に、小浜・敦賀などの市街へ出張の巡査に、学齢不就学の者を推問説諭して就学させるよう達しており、当時の巡査の職務内容の一端をうかがうことができる(上野区有文書)。 |