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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
    三 士族と徴兵
      城郭の破却
 明治三年(一八七〇)八月、小浜藩は支藩である鞠山藩の合併を願い出ると同時に、小浜城の郭中にある藩庁以外の建物について、壊れたものは修繕を加えず「廃撤」し、その修繕費を浮かせたいとの伺いを提出し、経費節減の意気込みを示している(「酒井家編年史料稿本」)。
 福井藩では遅れて四年六月、前年十月の「藩制」をうけた改革のなかで「永久修理ノ冗費ヲ去」るため同様の伺いを出し、さらに外堀なども埋めて開田または建物を建てたいとしている(資10 一―三六)。しかし、すでに藩内では、三年五月には外堀を埋め立てて作付けすることが部分的に許され、六月には城郭の塀を部分的に取り払うことや、城内の空隙地に桑や茶などを植え、これを「掃除之者」にあたえて、掃除その他万事を取り扱わせることが許可されている。さらに、十月には外堀を区切り、土居を取り崩して埋め立て、家を建ててもよいとするなど、城郭周辺の再開発が急速に進められている(越前史料)。これは三年八月の武生本多家中の福井移住をうけて、屋敷地が不足したことにもよるが、「掃除之者」などにみられるように、藩制改革による人員削減の対応策でもあった。また、十月ころには、中央集権制が実施されるといううわさにより、別邸である御泉水邸の改修を見合わせる動きもあり、「廃藩」を先取りする空気も流れていた(『松平春嶽未公刊書簡集』)。ともあれ、すでに廃藩以前に、城郭は封建領主の権力の象徴ではなくなっていたといえよう。
写真18 福井城巽櫓

写真18 福井城巽櫓

 廃藩置県後の八月、各地の城郭は兵部省管轄となるが(兵部省第七三)、足羽県は五年の夏、管下の福井、丸岡、勝山、大野の各城郭について、払下げのための入札を行う(資10 一―三七、「静斎日誌」)。続いて、六年一月、福井の城郭と敦賀(城郭なし)が「陸軍必用ノ分」として陸軍省管轄となり、さきの入札が取り消されるものの、小浜、大野、勝山、丸岡、鯖江の各城郭、陣屋、火薬製造所などは廃されることとなり、大蔵省に移管されたのち、民間に払い下げられた(太政官達無号、陸軍省第四七)。落札者が処分に困り、たまたま残された丸岡城天守閣のほかはすべて破却された。こうしたなか、福井の城郭は残されることになるが、福井では、すでに四年八月、旧藩主茂昭の上京後、その住居は藩知事の役邸となり、松平家では、競売に付された旧別邸の御泉水邸を買上げて、十二月には、旧「御座所」の会計方をはじめとする私的な役所をここに移している(「家譜」)。また、廃藩後、堀の埋立てが本格化して、六年一月には、すでに外堀のほとんどすべてが埋められており、上級士族の上京による士族屋敷地の荒廃とともに、城郭の破壊が急速に進んだことを示している(「足羽県地理誌」)。
 五年四月三日付の、村田氏寿足羽県参事と千本久信権参事から東京松平家にあてた書簡では、この時期に元福井藩家老邸を使用した畳敷きの県庁を、役人の服装とともに洋風化したことと、当時行われた大蔵省の査察が、大過なく終わったことを報告している(松平文庫)。県庁の洋風化は、この査察にあわせたものであり、当時文明開化政策を進めていた新政府に対する配慮であったと思われる。封建制の象徴である城郭の破壊が急激に進んだのも、県の役人にとって、封建制の遺構を積極的に破壊することが、新政府の一員たる証となったからであろう。 写真19 県庁洋化を伝える書簡

写真19 県庁洋化を伝える書簡

 ところで、七年の暮れ、足羽川の北側の福井市街と周辺の農村部を管轄する第十一大区が分割され、福井市街の士族居住地を中心に第二十大区が新設される。そして大区の区長、副区長が大区内の総代人以上により互選された(「敦賀県報告」)。区長の公選は他の大区ではみられないこと、第二十大区では八年四月の区長辞任の際、いったん官選に戻ったが、士族たちの歎願の結果、再度公選に戻っていることなどから、これは、足羽県の合併吸収による旧福井藩士族の不満の高まりのなか、県当局と旧福井藩士族との間の緊張関係から生じたものと考えられる。しかし、この互選制度が、九年六月、突然廃止され、再び士族たちの不満が高まると、東京の旧藩主松平慶永(春嶽)は、旧臣たちの動きが権令の責任問題に発展しかねないことを心配して、彼らの忿懣を和らげる方策として、「托病免職」という消極的な抗議手段を福井の旧重臣たちに示している(松平文庫)。
写真20 足羽県庁

写真20 足羽県庁

 九年八月二十一日、敦賀県は廃県となり、嶺北七郡は石川県に属することとなって、この問題は沙汰やみになったが、十年一月の旧福井藩士から東京松平家にあてた書簡は、城内の建物が、本丸の台所向など一部を残して、陸軍省より入札払になることを伝え、是非のないこととしながら「落涙之至御座候」と嘆いている。また六〇日間に取り払うため売却が難しく、余程の低価の入札になるであろうとも報告しており、士族の反乱があいつぐなか、福井城の建物もまた、反乱士族の拠点となることを恐れた政府によって、あわただしく破壊された。その後、十二年六月、福井士族の創設した交同社に、士族授産の一助として貸しあたえられ、そのほとんどが耕作地として利用された(松平文庫)。二十三年三月、福井城址は、陸軍の連隊設置構想からはずれたため、現状維持を条件に、再び松平家に払い下げられたが、それは福井城址がもはや反乱の拠点となる恐れのなくなったことを物語っている。旧福井藩主の松平慶永、同茂昭があいついで世を去るのは同年の六月と七月であった(「家譜」)。



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